「出会いに感謝!!」 …(H25.6.26 朝の話)
2013.06.26     K.S.
今年は聖和創立60周年という節目の年であることはみなさん御存じですね。

はやいもので、私がこの聖和女子学院に教員として就職して、いや聖和女子学院にみちびかれて33年目になりました。(年がばれましたか?)

大学を卒業し、福岡で産休代理の教員をしていたけれど、佐世保に戻り、教員の仕事を探していました。すると、今の夫の親戚の方に教育委員会の方がおられ、夫の父が私のことを頼んで下さったところ、ちょうど聖和で家庭科の教員を探しているからと紹介していただきました。

採用試験は校長面接でした。当時は第2代校長シスターメリークレメント。オーストラリア人の校長先生ということでとても緊張しました。とにかく怖かったことを覚えています。もちろん校舎はこの校舎ではなく、木造2階建ての旧校舎です。勤務当初は中学テニス部顧問でした。次の年は校舎建て替えのために今の中央高校の場所にあった旧商業高校に1年間仮住まいをしました。そして現在の校舎が建ったのです。新校舎に移転する前の春に結婚しました。そして30年!

さて、私が今の夫に出会ってなければ、聖和に勤めることはなかったでしょう。そして夫との出会いがあった福岡の大学に行ってなかったら結婚もしていない。その大学に合格していなかったら他の大学に行っていたことでしょう。そしてちがう高校に行っていたら、たぶん大学には行かずに就職していたと思う。

そう思うとさまざまな不思議な出会いに感謝せずにはいられませんし、聖和にみちびかれたとしか思えません。

人生の分かれ道での出会いがとても大きな影響を与えます。高校を選ぶときの親の一言、先生の一言、高校生活での友達や先生など、人との出会いや様々な体験が進路を考える上で大きく影響します。ひとつひとつの出会いを大切にしましょう。そしてその出会いを、すばらしい人生へとつなげていって下さい。
出会いに感謝!!

 
『資本論』 …(H25.6.11 朝の話)
2013.06.25     M.Y.
『資本論』、知っていますか。マルクスが途中まで書き、彼の死後、エンゲルスが書きつないだ『資本論』です。

私自身も読み通しているとはとても言い難いですが、読み返してみて感心したことがあります。それは、十九世紀初頭のイギリスの資本家やアメリカの奴隷商人たちの動きを細かく追いながら人間の欲望、とくにお金を儲けたいという欲望について証明している事でした。マルクスが言うには、人というのはお金を集め始めると必ず不必要なお金まで持ちたがる。物神礼拝でお金という金色の神さまにぬかづいてしまう。さらに人間は貨幣を資本という形にし、つまり、何もしなくても資本がどんどん大きくなるしくみを考えた。そのために資本主義の市場を作り出したが、それはさらなる貪欲とセットとなっていった。金のメダルの裏側に、マルクスがヨハネ黙示録を引用して言った、「悪魔の刻印」が押されていた。今、日本人がこの金メダルを大切にする人が増えてきた気がします。

前に紹介した新約聖書のエピソード、悪魔に憑かれた豚の群れが突然走りだし、湖へと落ちて行くような行動を、人間は聖書の時代からあらゆる国で繰り返してきたのだと思います。悪魔のささやきが私たちのまわりを舞っているのです。では、どうしたらそれを避けることができるのか。一つには前にも述べましたが、自分の目、身の回りにだけ関心をとどめず視界を三百六十度に広げ、出来るだけ遠くまで見晴るかすことが必要ではないでしょうか。
「種まきのたとえ話」 (H25.6月20日…マタイ福音書13章)
2013.06.25     K.F.
第三の垂訓 天の国の秘義(マタイ福音書13章)
「種まきのたとえ話」

その日、イエズスが家を出て湖のほとりに座っておられると、大勢の群衆が周囲に集まって来たので、イユズスは舟に乗って腰をおろされた。群衆は皆、岸に立っていた。イエズスはたとえでいろいろのことを語られた。
「種をまく人が種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ちた。すると、鳥が来てそれらをついばんでしまった。ほかの種は土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽を出したが、日が上ると根がないので、焼けて枯れてしまった。ほかの種はいばらの間に落ちた。やがていばらが伸びて、それらを覆いふさいでしまった。ほかの種はよい土に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍となった。聞く耳のある人は聞きなさい」。

今日は、中体連・高総体そして各文化部の大会で各々努力できたことを、神様と周りの人たちに感謝する集いです。皆さん、本当にお疲れ様でした。まだ、今後大会が続くクラブもありますが、その健闘も神様に祈りたいと思います。
さて、今日の聖書のお話は「種まきのたとえ話」です。このお話の意味するところを考えると、私も実は偉そうに話しが出来る人間ではありませんが、少し解説したいと思います。
このたとえ話の「種」とはイエスの言葉を表し、まかれた「土地」はイエスの言葉を聞いた人の事を指します。例えば、こういう意味です。
「土の薄い岩地」タイプの人は、イエスの話を聞き、感動してすぐその良い行いを実行しますが、根がない、要するにイエスの言葉を深く理解していないため、すぐに良い行いをやめてしまう、という意味になります。
「いばらの間」タイプの人は、良く理解し実行しますが、いばらが生えてきて、要するに世の中の様々な思い煩いや欲望に邪魔されるという意味ですが、結局言葉通り実行することを辞めてしまう人です。

このお話は、現代の私たちにも実は経験のあるお話ではないでしょうか?ご両親や先生方から貴重なアドバイスをもらいながら、いつの間にか色々自分で理由を付けてアドバイス通りやらなくなる、なんて経験は誰しもあると思います。

では、「よい土」タイプの人とはどんな人でしょうか。それは、皆さんの様な人たちだと思います。顧問の先生や先輩、友人の指導やアドバイスをしっかりと聞き、苦しい中にあっても着実に実行した結果、それぞれに納得のいく実り(結果)を得られたのではないでしょうか。中には全国大会に出場する人たちもいますね。毎日の苦労が何十倍もの実り(結果)となった良い例ではないでしょうか。

でも、皆さんの「実り」とは大会の結果のみでしょうか。本当の意味で、「種」を大事に育んできた「土地」である皆さんが生んだ「実り」の中には、人にとって大事な「感謝」という気持ちが沢山生まれていると思いますよ。真に頑張った人たちには、自分の力だけでここまで来られたのではないことが分かります。だからこそ、自然に「感謝」の気持ちがわき出るのではないでしょうか。今日はこの集いの中で、皆さんと感謝の気持ちを分かち合いながら進めていきたいと思います。
「戒めの言葉」…(平成25年6月19日:朝の話)
2013.06.19     K.O.
おはようございます。
今日は、私が忘れられない言葉についてお話をします。

「大浦君、人を見るときにはその人の行動を見なさい。」
私が尊敬する先生が、私が教師になったときに、私への戒めとして最初に教えてくださった言葉です。
そう言っていくつか具体的に例をあげて説明してくれたのを思い出します
●理屈だけ言って、自分は何にもしない人は、口先だけの評論家
●自分のことを棚に上げ、他人の文句だけ言っている人は、協調性に欠けた人
●一つのことができて世界を征服したような顔をして自慢する人は、教養がない人
●人に意見されることを嫌い、だからといって何にもできない人は、変なプライドだけで生きている迷惑な人
…そのときのメモを見るたびに、先生は私に何をおっしゃりたかったのかと考えつつ、今でも背筋が伸びて、自分のことを反省します。

人は誰でも自分のことが見えているようでよく分かっていません。いや、本当は分かっているんだけれども、気づかぬふりをしたり、あるいは、それが自分だからと開き直って過ごしているのかもしれません。
みなさんはいかがですか? 評論家になっていませんか? 協調性の欠けた人になっていませんか? どうでしょうか?

同時に全く逆のこともメモとして書いていました。
●口数は少ないのに、いつもきちんと仕事ができている人は本当に頭が良い人
●他人の悪口を一切言わずに、物知りで、困ったときに相談できるのは頼れる人
●人の言動を細かく冷静に見ていて、ここぞというときに行動する人は組織になくてはならない人

…30年も前に教えてもらったメモが、今でも当たり前に読めるのは、そのことが真理だからではないでしょうか

京都大徳寺大仙院の尾関宗園(おぜきそうえん)という和尚様の言葉に有名な言葉があります。ずいぶん以前にも、朝の話で紹介もしました。私が聖和に勤務し今の第1パソコン室が設置された頃から、その後ろの白板に書いている言葉です

心は、行動となり、
行動は習癖を生む。
習癖は品性を育て、
品性は運命を決する。

つまり、あなた方一人一人の心の持ちようが、あなたの行動に表れ、それが習慣となって、その習慣的な行動があなたの人となりを示し、それがまさに貴女の運命を決定づけていると教えてくれているのです。
カトリック系の学校としてこれを解釈すれば、神様はあなた方一人ひとりの心の有り様からくる、貴女の行いを見ておられますよ、ということでしょうか。

「大浦君、人を見るときには、その人の行動を見なさい。」
自分の戒めとしての、私の忘れられない言葉です。
「授業参観」…(H25.6.18:朝の話)
2013.06.18     S.K.
おはようございます!
今日から3日間、授業参観が行われます。
皆さんにとって、授業参観の思い出は(どのようなものですか?)
今日は、私の思い出話を1つ。

それは今をさかのぼる、数十年前・・・
学校生活にも慣れ、授業中に見る教育TVと、友達と休み時間にグランドで走り回るのを楽しみに過ごしていた、少々おてんばな小学2年生の頃です。

両親ともに仕事をしていたため、学校行事にはあまり参加ができなかったことを、子供ながらにわかっており、友達に「今日はお母さん来らすとぉ?」と余裕の構えでいた私。

先生が教室に入られ、みんなそわそわと後ろを気にしていたその時!
廊下を歩くたしかに見覚えのあるその姿・・・。みんなが小声で「だれ?」「だれ?」と聞いてくるのを、首を振って「さぁ~?」とするのがやっと。
でも、間違いなくそこにいるのは私の祖母でした。。。
大工をやっていた祖父の手伝いをし、いつも体を使って仕事をしていた祖母が、着物を着て、私の授業参観に来てくれたことが、しばらく頭で整理がつきませんでした。

授業の内容が何だったのか?・・・どんな質問をされたのか?
そのことはまったく記憶に残っていませんが、
先生がその日来られた保護者を気遣ってか?、いろんな質問をされ、
それが当たったことで、友達にもわかってしまい、
ちょっと恥ずかしい、でも特別な思い出です。

人を幸せにする言葉とそうでない言葉がありますが、皆さんはどちらの言葉が好きですか?

先日、中学では『家族への感謝の日』という行事を行いましたが、時間を作って来てくださった保護者には、ぜひ「来てくれてありがとう」。当たり前のことでも「いつもありがとう」と、気持ちを伝えてほしいと思います。
今朝はこれで終わります。