心のとびら
先生から伝えたい言葉
生徒の皆さんの心に留めておいて欲しいことを先生が交代で話をします。
皆さん、おはようございます。
今年は特に台風の多い年だとニュースを耳にしていましたが、今回の勢力の強い台風19号は日本に大きな傷跡を残しました。
家屋の倒壊や道路や鉄道の寸断。河川の氾濫など、甚大な被害が出ました。
また、この連休中は東京・渋谷のNHKホールで行われる、全国学校音楽コンクールの全国大会の開催日でしたが、台風接近の影響で高等学校の部は大会中止という史上初の出来事も起こりました。。。
住む家を失った方々やまたお亡くなりになった方々、
全国大会出場の切符を手にしていたのに参加ができなくなった高校生たち、
今日をどうやって過ごしていこうと途方に暮れている方々、
私たちはどんな事ができるのでしょうか?
そしてあなたは、何を考えますか?
いよいよ今週末となりました。チャリティーコンサート聖和音楽のつどい。
今までを振り返ってみても、こんなに盛りだくさんの内容は類を見ない豪華拡大版です!
TSUKEMENさんと全校合唱で歌う「時を超える絆」。
TSUKEMENさんは今、ツアー中で全国のさまざまな会場でこの曲を歌っていらっしゃいます。
この曲を通して、全国の人と人の輪を繋げていらっしゃいます。
私たちは、今、お金や時間をかけることはできないけど、この曲を歌うことで客席にいらっしゃる方々や一緒に歌っている仲間と共に感動を届けることができます。
私たちにやれることはまだまだあります。
明日からの合唱練習を含めて、本番まで皆さんの力で音楽のつどいを盛り上げていきましょう。
担当は音楽科、中学3年1組担任の楠本でした。
今朝はこれで終わります。
皆さんは、ネットで「泣ける」と話題の「アクエリアスのCM」を見ましたか?
野球・サッカー・バレーに打ち込む少年少女と、それぞれの家族の様子が描かれたCMです。
そのCMの中で流れていた曲にこのような歌詞があります。
「君の夢が 叶うのは 誰かのおかげじゃないぜ
風の強い日を 選んで 走ってきた」
確かに、私の夢が叶うためには、私が努力しなくてはいけません。
夢を叶えるためには、つらいこともたくさんあるでしょう。
ですが、その道を選んだのは紛れもない私です。
ここまで聞くと、夢が叶ったのは自分だけの力だと捉えるかもしれません。
ここで、CMの話に戻りましょう。
このCMはスポーツをする少年少女たちが主役ではありません。
彼らを応援する家族を中心に描かれています。
確かに、
私の夢は私が選んだ私だけの夢です。
私の夢を叶えられるのは私しかいません。
ですが、そこには確かに応援してくれる誰かの存在があります。
一緒に走ってくれる誰かがいます。
楽に叶う夢なんてきっとありません。
何かを犠牲にしないといけないこともあるでしょう。
夢を叶えるための長い道、その中の今日という一日を後悔せずに過ごしてほしいと思います。
みなさんの夢が叶うことを願っています。
昨年、退職された英語科、S先生の「ノミのジャンプ」の話を思い出しますか?「負け・失敗・挫折」を経験したときに、『自分の限界』を決めてしまえば、ノミとコップの話にあった「跳べないノミ」 になってしまうと言う話。
今日の話は、この「跳べないノミ」に、ある人が言った、なるほど話 を紹介します。
さて、この「跳べないノミ」を、もう一度コップよりも高くジャンプさせるためにはどうすればいいのか。
それは、もう1匹の高く跳べるノミをコップに入れること。跳べるノミを見ることで「跳べないノミ」は自分自身を取り戻し、コップを跳び越えられるようになるそうです。
だから、「跳べないノミ」になる程度なら、まだ大丈夫というのです。そして、実は「跳べないノミ」よりも、もっと心配しなくてはならないノミがいる。と言います。「跳べないノミ」よりも、もっと心配しないといけないノミとは。
「跳べるノミ」を見ても、跳ぶことができないノミです。「跳べるノミ」を見て、それでも「跳べないノミ」とは、「あいつはもともと、ジャンプ力がすごいし」とか、「このコップの中に居たいから、あえて跳ばないだけだし」などと言い訳し諦めているノミ。「なんだ、あいつでも跳べるんだ」と考え、もう一度 自分を信じて跳べばできるのに、自ら壁をつくったり、自分を正当化することで、「自らの力」を発揮できないのです。
「負け・失敗・挫折」を経験したとき、それを糧とするのか、自ら壁をつくってしまう のか、自分を正当化する材料にするのかは自分次第です。あの時の負け、あの時の失敗、あの挫折。可能性に「限界」を感じ、跳べないノミになる程度なら、まだ、大丈夫です。大切なことは、跳べるノミと 一緒のコップに入ること。そこで、「自分はもっと跳べるはず」と考えることができるようになることです。
自分を「跳べるようになるノミ」にしてくれる『仲間』。そして、自分の可能性を信じる「自分」。
私たちに無限の可能性があるのは間違いありません。『良き仲間』とともに、無限の可能性がある『自分の力』を信じて、これからも、頑張っていきましょう。
おはようございます。
普段は車に頼りっきりの私ですが、先日、2、3年ぶりにMRに乗る機会がありました。今日は、その時の話をしたいと思います。
小学校高学年くらいの女の子と、小学校低学年くらいの男の子、そしてその子たちのお母さん。3人は車両の中央付近の向かい合う席に座っていました。私が電車に乗って、1、2分経過した後、女の子は男の子に「お前のせいだろ」、男の子はそれに対して「ふざけんな」と、どうやら兄弟喧嘩をしているようでした。4、5メートル離れたところに座っていた私のところにも単語が聞こえるくらいの声でしたので、まあまあ大きな声だったと思います。他にも「まじしね」「まじ殺す」などの乱暴な言葉が次々に社内に響いていましたが、横にいるお母さんは携帯に夢中で、目の前でくり広げられている2人のやり取りには無関心。お母さんにとっては日常茶飯事なのでしょう。
私は、まあ、「子どもの兄弟喧嘩だから・・・」と、BGMにように聞いていて、そうしているうちに目的地に着いたので、見届けないまま電車を降りました。電車を降りた後、そのあとどうなったのかも気にはなりましたが、電車に乗る前までの楽しい気持ちが、降りた後すっかりなくなってしまったことに気が付きました。
自分に言われているわけではないですが、乱暴な言葉というのはやはり、聞いていて気持ちのいいものではありません。
学校の中でも、たまに、乱暴な言葉を耳にすることがあります。
どんなに仲の良い友人同士で、言っている本人は冗談のつもりでも、気づかないうちに、“本当に”傷つけてしまっていることもあります。
口癖になっていたり、たとえ悪気はなくても、傷つく人がいる、嫌な気持ちになっている人がいる、ということを忘れてはいけません。
私の今回の立場のように、もしかしたら、それが聞こえる周りの人にも迷惑をかけてしまっているかもしれません。
せっかく口にする言葉なら、人の心を癒すために、自分を成長させるために、出来るだけ前向きな言葉を使いたいものです。
「言葉遣いが丁寧で、自然に相手を気遣うことのできる人」、そんな人はつい目で追ってしまいますし、私は、素敵だなぁ、マネしたいなぁと思います。
自分が心がけることによって、もしかしたら友達も、周りの環境も、少し変わってくるかもしれません。
どんな環境を作るか、どんな人間関係を築くかは、自分の選択次第です。
今朝はこれで終わります。
みなさん、おはようございます。宗教科担当のMです。
みなさんは「こうあるべき」と思っていることはありませんか。たとえば、「お姉ちゃんは我慢すべき」「先輩はしっかりすべき」など、いくつかの「こうあるべき」を持っているのではないでしょうか。私はそれが人より多いように思います。
妹が生まれたころ、私は「姉は我慢すべき」と思っていました。小学校は「毎日行くべき」と思って通っていましたし、中学校では「部活を続けるべき」と思って続けていました。私にとって多少しんどいことは「これはこうあるべきなのだ」と思い込むことによって、達成していました。これが「私だけが」こうあるべきと思うだけなら良いと思います。しかし、「姉は」「小学生は」「先輩は」などと思っていると、「同じ姉なのに」と他人が自分の考える「こうあるべき」にそぐわない行動をしているのが気になるようになります。私は「こうあるべき」を実践できている自分が正しいと思っていました。ですから、部活を辞めた同級生よりも自分のほうが正しいなどと思い、私の「こうあるべき」に沿わない生き方がまるで残念であるかのように考えていました。
聖書には「人を裁くな」とあります。マタイによる福音書7章の3、4節では「あなたは、兄弟の目にあるおがくずは見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気付かないのか」と語られています。まさに私は自分の「こうあるべき」に沿わないという他人のおがくずにばかり目を向け、自分の中にある「不寛容」という丸太に気付かないでいました。今でも度々自分の目の中に丸太が現れます。自分の丸太を完全になくすことはできないかもしれませんが、丸太が入っていることを自覚して生きていきたいと思います。