心のとびら

先生から伝えたい言葉

生徒の皆さんの心に留めておいて欲しいことを先生が交代で話をします。

先月、6月29日の土曜日、大学時代のOB・OG会が熊本で行われ、
参加してきました。
私の大親友である「I君」と会うのは5年ぶりで、“オー、T君!!”
という懐かしい声に引き寄せられ、隣の席に座ることになりました。

クラブという媒体がなかったら、彼と出会うことはなかったでしょう。
そして彼は、今自分があるのは、このクラブの仲間がいてくれたお陰で
あることをしみじみと語ってくれました。

でも、私のことを考えてみると、このI君の存在がなければ、私自身も
今の教師という職に就いていたかどうかということを考えさせられました。

大学という場、“自学・自習” 将来の仕事に就くための勉強の場である
ことは当然ですが、多くの人と出会い多くの経験をする、人間形成の場で
あったと強く感じさせられた時間でした。
私も多くの友人たちに出会えたことに感謝し、また今年の冬か来年の
夏に会えることを楽しみにしています。


ちなみに、I君は11年をかけて大学を卒業しました。
そして、今は鹿児島の整形外科の病院の院長を務めていることをお伝えして、
今朝の話を終わりといたします。

今年は聖和創立60周年という節目の年であることはみなさん御存じですね。

はやいもので、私がこの聖和女子学院に教員として就職して、いや聖和女子学院にみちびかれて33年目になりました。(年がばれましたか?)

大学を卒業し、福岡で産休代理の教員をしていたけれど、佐世保に戻り、教員の仕事を探していました。すると、今の夫の親戚の方に教育委員会の方がおられ、夫の父が私のことを頼んで下さったところ、ちょうど聖和で家庭科の教員を探しているからと紹介していただきました。

採用試験は校長面接でした。当時は第2代校長シスターメリークレメント。オーストラリア人の校長先生ということでとても緊張しました。とにかく怖かったことを覚えています。もちろん校舎はこの校舎ではなく、木造2階建ての旧校舎です。勤務当初は中学テニス部顧問でした。次の年は校舎建て替えのために今の中央高校の場所にあった旧商業高校に1年間仮住まいをしました。そして現在の校舎が建ったのです。新校舎に移転する前の春に結婚しました。そして30年!

さて、私が今の夫に出会ってなければ、聖和に勤めることはなかったでしょう。そして夫との出会いがあった福岡の大学に行ってなかったら結婚もしていない。その大学に合格していなかったら他の大学に行っていたことでしょう。そしてちがう高校に行っていたら、たぶん大学には行かずに就職していたと思う。

そう思うとさまざまな不思議な出会いに感謝せずにはいられませんし、聖和にみちびかれたとしか思えません。

人生の分かれ道での出会いがとても大きな影響を与えます。高校を選ぶときの親の一言、先生の一言、高校生活での友達や先生など、人との出会いや様々な体験が進路を考える上で大きく影響します。ひとつひとつの出会いを大切にしましょう。そしてその出会いを、すばらしい人生へとつなげていって下さい。
出会いに感謝!!

 

『資本論』、知っていますか。マルクスが途中まで書き、彼の死後、エンゲルスが書きつないだ『資本論』です。

私自身も読み通しているとはとても言い難いですが、読み返してみて感心したことがあります。それは、十九世紀初頭のイギリスの資本家やアメリカの奴隷商人たちの動きを細かく追いながら人間の欲望、とくにお金を儲けたいという欲望について証明している事でした。マルクスが言うには、人というのはお金を集め始めると必ず不必要なお金まで持ちたがる。物神礼拝でお金という金色の神さまにぬかづいてしまう。さらに人間は貨幣を資本という形にし、つまり、何もしなくても資本がどんどん大きくなるしくみを考えた。そのために資本主義の市場を作り出したが、それはさらなる貪欲とセットとなっていった。金のメダルの裏側に、マルクスがヨハネ黙示録を引用して言った、「悪魔の刻印」が押されていた。今、日本人がこの金メダルを大切にする人が増えてきた気がします。

前に紹介した新約聖書のエピソード、悪魔に憑かれた豚の群れが突然走りだし、湖へと落ちて行くような行動を、人間は聖書の時代からあらゆる国で繰り返してきたのだと思います。悪魔のささやきが私たちのまわりを舞っているのです。では、どうしたらそれを避けることができるのか。一つには前にも述べましたが、自分の目、身の回りにだけ関心をとどめず視界を三百六十度に広げ、出来るだけ遠くまで見晴るかすことが必要ではないでしょうか。

もうすぐ朝の話が回ってくる、何の話をしようかなと悩んでいると、皆さんから「大学時代のことを話してください。」とお題をいただき、「大学の時ねー。何していたかなぁ。」と必死に記憶を掘り起こしつつ、昨日のM先生のお話を聞いていて、「あ。私、大学の時、M先生が結婚式を挙げたホテルで働いていたなー。」と改めて気づきました。
私は、大学の時、塾や、家庭教師、ラジオ、居酒屋、バイキング、テレビの緊急速報を流すバイトなど様々なところで働かせてもらいました。その中で、一番記憶に残っているのは、ホテルのウエディングプランナーのお仕事です。私は、主に、結婚式を挙げたいと思っているお客様に、会場案内やどのような式にしたいかという想いをくみ取り、プランを紹介する仕事でした。幅広い年齢層の方と関わることができ、温かい気持ちに何度もさせられ、今でも本当に素敵な体験をさせていただいたと思っています。その中で、一番記憶に残っているお客様のお話をしたいと思います。

ある夜のことでした。お客様が帰ってしまい、片づけをしていると、一人の男性が血相を変えて、ホテルに入って来ました。「すみません、バースデーケーキありますか?」あまりに大きな声で尋ねられ、私も少し戸惑ったのを覚えています。娘の誕生日だから帰り際、買ってきて欲しいと奥さんから頼まれて、今まですっかり忘れていたとのことでした。

ところが私が勤めていたホテルは、土日の挙式以外にケーキを作ることはなく、レストランにも鉄板焼きステーキのお店なので、置いてありません。「少々お待ちいただけますか?」と言い、その時上司だったスタッフに伝えると、「ない。」と即答の返事でした。
そのやり取りを見ていて、がっくりと肩を落として帰ろうとしているお父さんを、スタッフは引き止めました。「少々お待ちくださいませ。」そして、何を始めたかというと、なんと上司は私の頭の上に電話帳を置き、「急いでかけなさい。」とだけ伝え、他のホテルでケーキが置いてありそうなお店に電話をかけ始めました。何度か電話をかけ、4件目でやっとバースデーケーキのあるホテルを見つけると、上司は、「お客様、○○ホテルには、まだ、バースデーケーキがあるそうです。私どもの作るケーキに勝るとも劣らない美味しいケーキを作っております。」と説明しました。そして、私の方から、「お子様はおいくつですか?ろうそくは何本必要ですか?」などと聞き、ライバル店のホテルに説明し、最後に「このあと、お客様がいらっしゃいますから、宜しくお願い致します。」と伝え、電話を切りました。さらに、上司は、「お客様、少々お待ち下さい。草野もこれで終わりですから、一緒に行きましょう。」と伝え、私がそのお父さんを自分の車に乗せて、ライバル店のホテルまで送り届けたというお話です。
2年後、私がいつものようにバイトに入っていると、指名で案内を頼まれました。以前担当した方のお知り合いかなと思っていると、なんと2年前にケーキを頼まれたお父さんの娘さんでした。そのお嬢様から、本当にありがとうございましたとのお礼をいただき、挙式の成約まで決めていただいたというお話です。

「なんのために働くのか」と考えたとき、「自分のホテルに来てもらうため」と考えそうですが、私の上司は、「お客様に喜んでもらうサービスをするため」と即座に言い放ちました。日々、誰かのために何かしたい、と思い生活している人は、自然と人が集まって来ます。心からお客様を喜ばせたいと思ったからこそ、お客様が本当に望むものや心が垣間見ることができたのだと感じます。自分の思いや目先の利益ばかりに気をとられていると心の目が曇って相手の心が見えなくなってしまうのではないでしょうか。突然入り、あるはずもないケーキを求めたお客様!これをラッキーにとらえるのか、アンラッキーにとらえるのかは結局自分次第です。考え方や自分の行動、そして心の在り方次第でピンチはチャンスに変わるんだと実感した出来事でした。生きていれば、必ずトラブルが起こることですが、その時にどんな対応をするのか、自分に正直でいればいつか周りの人は気づいてくれると信じたいものです。今、みなさんがそれぞれに合ったタイミングで、自分のピンチやトラブルを心の在り方で乗り越えることができるよう、お祈りしています。

みなさん、おはようございます。高校2年生副担任・社会科を担当しています。
聖和に来て、早くも8カ月目に入ろうしているにも関わらず、皆さんに教えてもらうことが多い毎日です。教員という職についてから、自分の学生時代について、思い出すことがあります。私は大学4年生の夏まで、教員になるとは全く思っておらず、ただただ自分興味のある国際政治や開発援助、外交分野の勉強に没頭していました。大学はともかく、高校時代は勉強もせず、はやく卒業したい、と思っていた私が教員になり、今までの人生のほとんどを学校ですごしているんだなあ、と思うと不思議です。
私は学生時代、演劇部に所属し、照明という裏方の作業に魅了され、大学時代もひきつづきサークルやアルバイトで舞台に関わりました。
その中で、1つ思ったことがあります。歴史には、光と影があるように感じます。皆さんが教科書で学習する歴史上の人物のほとんどは名を残し、名誉高く、人々から尊敬される人物ではないでしょうか。あのヒトラーさえも、当時のドイツ人にとっては光でした。しかし、光に当てられた人物の裏には、その何倍もの影があります。影が濃ければ濃いほど、光の存在感が浮き立つのです。
私は、自分自身が歴史を勉強する中でも影の役割を実感することが多々ありました。決して表舞台には出ずとも、水面下で走り回り、少しでも事態を改善しようとしている人はたくさんいます。教科書には出てこないかもしれませんが、名もない普通の人々について考えてみるのも面白いかもしれません。

最後になりましたが、ある面接試験で、このようなことを言われました。私の経歴についての質問のあとに言われた言葉です。「貴女は、演劇部でも裏方、歴史も裏での外交や交渉などに興味があったんですね。ではなぜ、教員という表舞台の仕事を選んだのですか?」私はまさかそのような質問をされるとは思わず、一瞬頭が真っ白になりました。その時のとっさの一言は、「私にとって教員の仕事は裏方です」というものでした。とっさに考えたものの、それまでの私は教員の仕事を表とは考えていませんでした。
皆さんはよく耳にすると思いますが、世の光です。まだまだ教員としては未熟な私ですが、皆さん一人ひとりが輝くように、一生懸命サポートしていこうと思います。

今年も残すところ、あと2週間となりました。この1年間はみなさんにとってどのような年だったでしょうか。中学1年生の中には、今年の1月頃には、まだランドセルを背負っていた方もいるはずですね。
この1年間を振り返ったときに、「あぁ、私はしっかりとこの1年間を生きたなぁ。生きている実感を多く感じることができたなぁ。」という人もいるはずです。この「生きている実感」というものは決して楽しい時だけではなく、辛いことのまっただ中にいるときでさえ感じることができるものだと私はある体験を通じて知りました。

私が大学1年生の時、もう30年ほど前の19歳の頃のことですが、少しでも学費の足しになるようにということと、自分自身の精神力を鍛える意味から、2年間、毎朝4時起きで新聞配達のアルバイトをしました。アルバイト料は1軒につき150円。雨の日も、風の日も、雪の日も、1日も休まず、毎朝毎朝およそ2時間ほどかけて100軒の家に、1か月間配達して、月にやっと15,000円です。夜の家庭教師で1か月に8回行くだけで、2万円から3万円をいただいていたので、比較すると新聞配達がいかに、きつい割には安いアルバイトだったかがわかってもらえると思います。


さてそのある朝、深夜から続く激しい雨は土砂降り状態で、原付バイクで走っていても殆ど前が見えないほどでした。山奥の一軒家のおばあさんの家はいつも真っ暗で、その山道ほど嫌なものはありませんでした。少しでも早く配り終えたかった私は、近道をしてちょっとぬかるんだ急坂の小径をバイクを走らせいました。ところが、激しい雨のため、運悪くタイヤが滑りハンドルを取られて、バイクごと転倒し、水かさの増した幅1メートルほどの小川に、積んでいた新聞ごと落ちてしまいました。雨のせいで水の流れが速く、流される新聞を急いでつかもうとした時に、自分自身も足を取られ、自分も新聞もぐっちゃぐちゃになってしまいました。やっとの思いで濡れた新聞紙を抱え立ち上がりましたが、激しい雨に打たれながら必死になって頑張っている自分のみじめな姿に、何が悔しかったのか、何が悲しかったのか、その複雑な思いからか急に、ボロボロ、ボロボロと涙がこぼれ落ち、真っ暗な山の中でしばらく呆然と立ちすくんでいました。それがどれくらいの長さだったのか、時間的なことは覚えていませんが、心の中にふっと、「自分は今、生きてる」「なんか懸命に生きてるなぁ…」っという感情がこみ上げてきて、山の中で大声で「うぅ~をぉ~~っ!!」と叫んでいました。今思い出すと馬鹿みたいな、端から見ると気持ち悪く、気でも狂ったのかと思われるような様子だったはずです。しかし、私は後にも先にもその時ほど、「生きている実感」をそんなに強く感じたことはありません。

それはもしかすると、今現在の自分が、毎日を生きることに対する懸命さが少し足りないからなのかもしれません。

話が長くなりましたが、どうかみなさん、この1年を終え、新しい年を迎えるに当たり、自分はこの1年間を懸命に生きただろうか、「生きるている実感」を感じる時をどれくらい重ねることができたのだろうかと自分自身に問うてみて欲しいと思います。
皆さん方が、2週間後の1月1日に、さらに充実した素晴らしい年を迎えられますように、心からお祈りをして今朝の話を終わります。

2014/09/18
A.S.

おはようございます。
9月11日(木曜日)の体育祭!!とても楽しくて、素晴らしい体育祭
だったと思います。
皆さんはいかがでしたか?
体育館での体育祭。初めての試みで準備も大変でどうなることかと
不安も沢山あったかと思います。しかし、盛大に終わることができた
のではないでしょうか。
私は係りの仕事が、警備係ということで、保護者の受付や全体の見回り
などをしました。なので、保護者が来られない前日のリハーサルは、
観客席から皆さんの様子を見ることが出来ました。
この日は準備はもちろん、進行していく上で問題が出てきたり、思った
ように進まないことも沢山あったのかな・・と思いながら見ていました。
しかしその時その時で係の生徒さんや先生方とで解決し、次の日の本番
でスムーズにいくように頑張っている皆さんの姿は輝いていました。
実際、次の日の本番は全てにおいてうまく進んでいたのではないかと
思いました。そして一人一人が全力で一つ一つの競技に夢中になって
いたことと思います。
それは、体育祭が終わって帰られる保護者の方々の言葉や表情でそれを
感じることができました。
ほとんどの保護者の方々が
「とても楽しかったです!!ありがとうございました!」
「聖和ってすごいですね!なんでも充実しているのですね!」
「女子校なので迫力などないかと思ってましたが、女の戦いって感じで、
迫力満点でした!」
そして、
「最初のがんばらんば体操で泣いてしまった。。」といわれる方も
いらっしゃいました。
何といっても、中学生の集団行動は涙なしでは見ることはできなかった
と思います。
このような沢山の言葉を頂けたと言うことは、皆さんが、一生懸命に
頑張った成果だと実感しました。

私はいつも中学生、高校生の力は無限大だと思っています。
この体育祭でも沢山のエネルギーで盛大に終わることができました。
さて、今日からは気持ちを切り替えて、自分のエネルギーは今度は
どこに必要なのか考えて過ごしてください。

最後に、赤ブロック、青ブロック、黄色ブロック、どのブロックも
優勝だったと私は思います。

おはようございます。
今日は、私たちのからだについてお話ししたいと思います。
私たちのからだは、約60兆個の細胞からできています。その細胞一つ一つが栄養分と酸素を
使って生活していくことで、私たちの生命活動が維持されています。
それでは私たちのからだについて質問です。
1:1日にするまばたきの回数は?
① 200回  ② 2000回  ③ 20,000回     正解③
2:くしゃみの速度は?
① 4km/h  ② 58km/h  ③ 290km/h  正解③
3:血液の全体重に対する割合は?
① 8%  ② 16%  ③ 32%            正解①
4:血管のすべてをつなぎ合わせると?
① 10km  ② 10万km  ③ 10億km      正解②
5:脳の重さは体重の何%くらい?
① 2%  ② 20%  ③ 200%           正解①

脳の重さは体重の約2%(?)
体重が重ければ・・・・・
脳をつくる脳細胞の数は約100~140億個といわれています。
それだけでなく、脳細胞のはたらきを助ける細胞が約9倍存在していると考えられるので
それをあわせると、約1000億個の細胞から成り立っているのです。
でも、私たちの生活の中で精一杯頭を使ったと思っても、約1000個の3%程度しか
はたらいていないそうです。
今日、英語弁論でステージに立つみなさん、脳細胞はこれまでのみなさんの取り組みを
ウラギルことはありません。
ただの3%が、スーパー3%になれば、きっと1000オク個の細胞は良い刺激を
受け取ることでしょう。ケントウを祈ります。

今日は、以上で終わります。

「うまいでがんす!」これは佐世保で私の父親と一緒に食事をする際、彼がよく使う言葉です。最初のうちは「何言うとんじゃこの親父は?!いちいち鬱陶しいのう…わしに構って欲しいんかね?」と思ったりもしていたのですが、聞けばこの「~がんす」という言葉、私のふるさと、広島の県北と呼ばれる地域で昔は盛んに使われていたれっきとしたお国言葉。約20年間広島で生まれ育った私も初めて父の口から聞いて知り、もちろん関東生まれ関東育ちの父も耳にしたのはごく最近、気に入って使い始めたのです。
きっかけとなったのは『元就』。毎週日曜お昼の1時間、地域の魅力を再発見するというコンセプトのもと、広島を中心に放送されているローカル番組です。番組のレギュラーはこれまた広島出身のお笑い芸人、アンガールズの2人。毎回、侍の格好をして色んな街を訪ね歩きます。ロケの最中、美味しいものを食べると「うまいでがんす」の決め台詞が田中さんの口からこぼれます。
田中さんのアイディアなのか、番組制作者の配慮なのか、敢えて消えてゆきそうだった「~がんす」を再登場させたセンスに私は『粋』を感じました。今では山間部、都市部を問わず、広島の子どもたちの間で「~がんす」が流行しているそうです。
推測にすぎませんが、広島で30年以上仕事をしながら、普段は好んで広島のお国言葉を使わない父が、わざわざ「がんす、がんす」と言ってくれるのは、なかなか広島に戻れない私を気遣ってのことなのかな、と思うようにしています。ちなみに、父が私を叱咤激励する時には、去年から「がんばらんば!!」と言われ続けています。

おはようございます。
先日、佐世保市の各中学の代表が集まって、青少年の主張大会が開かれました。
テーマは部活動、生徒会活動、家族、自分自身についてなど様々でした。
その中でも特に、自分の両親について述べている生徒の発表を聞いて、私も自分の
両親について改めて考えてみようと思いました。

みなさんは、お父さん、お母さんのこと好きですか?
私は、母は好きです。父はどうでしょうか…。
私は小さい頃から父と話した記憶が数えるほどしかありませんでした。
もちろん一緒に暮らしていました。別に仲が悪かったというわけではありません。
父は普段は無口で、仕事が生きがいのような人です。そして私達兄弟に全く興味の
ないような人です。だから、私達兄弟は父はいるけど、母と祖父母に育ててもらったようなものです。高校生になり、進路を決める時も、母にばかり相談をしていました。
母からすると、「大学の費用を出すのは父だから、直接父に話してほしい」という気持ち
だったそうです。ですが、小さい頃からそんな真剣な話をしたことがなかったので、
父に話しかける時は緊張していたのを覚えています。

大学生になり、初めて家を出たときのことです。実家では、父が「あいつは大丈夫とか。
連絡してみろ」と妹や母に何度も言っていたそうです。たまに私が実家に帰ると、
いつもなら話をしない父が、「大学はどうか。一人暮らしは大丈夫か。」と話しかけてきました。
その時わかったことですが、父は単純に恥ずかしがり屋だということです。
恥ずかしくて娘とうまくコミュニケーションが取れなかっただけで、実は私達兄弟の事を心配して
愛してくれていたことに気がつきました。
父のように言葉には表さないけれど、私を見守ってくれる人は、他にもいてくれると思います。
そんな人たちに感謝しながら毎日を過ごしたいと思います。