心のとびら
先生から伝えたい言葉
生徒の皆さんの心に留めておいて欲しいことを先生が交代で話をします。
おはようございます
昨年8月、初めての教え子に偶然再会しました。
教え子は、もう40歳。年月の過ぎる早さに驚きましたが、もっと驚いたのは卒業して20年以上も経つのに、顔も名前も分かったということ。当時の話で盛り上がりました。
その教え子は、当時担任をしていらっしゃった先生のこともよく覚えていて、あの時はこんな言葉をかけてくれた、こんな時はこう助けてくれた……と語り、自分たちは好きなようにしていたから先生はたいへんだっただろうと話しました。
その時は、指導される先生に反抗したり、感謝の気持ちを伝えたりしていなくても、実は分かっていたのかということを知って、この時の再会で当時の思い出がさらに大事なものとなりました。
ところで、皆さんが学校で様々な教科を学び、集団生活を送るのは何のためでしょうか。 例えば国語で、辞書を引き、漢字を覚え、古典を学習するのは何のためでしょうか。
学校の規則に従って生活するのは何のためでしょうか。
今は難しいと感じたり、面倒だと思うことも、全て自分たちが豊かに正しく生きるために必要なことなのです。
今は、どうしてそう言われるのか、なぜそのように動かなければならないのか分からず、先生に反発したり、疑問が不満に変わったりすることはあるでしょう。
でも、私たちは、皆さんの将来に役に立つように、皆さんを守るために、という思いで話しているのです。だから、皆さんが、たとえその時すぐに分からなくても、素直に受け入れることができなくても、私たちは繰り返し皆さんにお話しします。
どうか、何年経っても、あの時は……と思い出して、まっすぐに正しいと信じた道をしっかりと歩んでいってほしいと思います。
おはようございます。3年Aクラスの担任です。
今朝は大変遅くなりましたが、報告のチャンスがなかったので、3年Aクラスの学院祭の報告をします。
3年Aクラスは、戦闘中とフェアトレードの商品の販売をしました。フェアトレードって皆さんは知っていますか?聞いたことはありますか?
フェアトレードとは、そのまま訳せば「公正な貿易」ですが、商品を買うことでできる身近な海外協力です。低開発国の生産者と、公正に継続的に取引を行い、生産者の思いを多くの人に伝える。そのことによって彼らの生活の安定や自立、ものづくりの伝統芸術の継承につなげていくことができるのです。商品は自然素材のぬくもりある雑貨やオーガニックのコーヒー、紅茶、スパイスなどで、「もの」を通じて人と人がつながることが「フェアトレードです。
私の知り合いで西海町でフェアトレードのお店をされている森田さんから商品を仕入れ、(夏休みに生徒代表者3名とお店に下見に行き、お話も聞きに行きました)学院祭では、コーヒー、紅茶、カレールー、砂糖、塩、石鹸、スリッパ、小銭入れ、シュシュなどを販売しました。皆さんの協力で2日間で28,400円売り上げました。
売り上げの15%の4,260円が利益になりました。そこで私たちはその売り上げ利益を「福島の子どもたちの支援」に送ることにしました。
実は森田さんは、東北の震災への支援活動をいろいろ取り組まれておられ、昨年秋は「福島の子育て支援プロジェクト」に参加されていました。これは原発事故以降、福島県内の子どもを持つ親は放射能への不安と向き合いながら生活。放射能の影響を心配し、子どもを気軽に外で遊ばせられなくなり、子どもが外出しても、落ち葉や土、石などに触れさせられない状況が続いているということで、自然豊かな佐世保市近郊で集めた落ち葉やドングリなどを送り、福島の子どもたちに思いっきり自然とふれあってもらおうという支援活動です。その協賛金として使っていただきました。そして実際11月24日に福島県白河市の体育館で、イベントが行われ、佐世保から段ボール箱38箱分の落ち葉や木の実で遊ぶことができたそうです。
東北の震災直後は、一生懸命募金活動もしましたが、日にちがたつとつい忘れてしまいがちですが、まだまだいろいろな支援が必要とされています。募金は実際何に使われるのかはっきりしないけれども、このように相手がはっきりしており、協賛金の使い道がわかる支援もいいなと思いました。
実はフェアトレードも支援の相手がはっきりしています。
さて、皆さんには、世界へも目を向け、「フェアトレード」を知って欲しかったことと、日本や世界で困っている方々への支援はいろんなものがあります。自分のできることを見つけて何らかの行動をおこして欲しいと思います。
今朝はこれで終わります。
第三の垂訓 天の国の秘義(マタイ福音書13章)
「種まきのたとえ話」
その日、イエズスが家を出て湖のほとりに座っておられると、大勢の群衆が周囲に集まって来たので、イユズスは舟に乗って腰をおろされた。群衆は皆、岸に立っていた。イエズスはたとえでいろいろのことを語られた。
「種をまく人が種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ちた。すると、鳥が来てそれらをついばんでしまった。ほかの種は土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽を出したが、日が上ると根がないので、焼けて枯れてしまった。ほかの種はいばらの間に落ちた。やがていばらが伸びて、それらを覆いふさいでしまった。ほかの種はよい土に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍となった。聞く耳のある人は聞きなさい」。
今日は、中体連・高総体そして各文化部の大会で各々努力できたことを、神様と周りの人たちに感謝する集いです。皆さん、本当にお疲れ様でした。まだ、今後大会が続くクラブもありますが、その健闘も神様に祈りたいと思います。
さて、今日の聖書のお話は「種まきのたとえ話」です。このお話の意味するところを考えると、私も実は偉そうに話しが出来る人間ではありませんが、少し解説したいと思います。
このたとえ話の「種」とはイエスの言葉を表し、まかれた「土地」はイエスの言葉を聞いた人の事を指します。例えば、こういう意味です。
「土の薄い岩地」タイプの人は、イエスの話を聞き、感動してすぐその良い行いを実行しますが、根がない、要するにイエスの言葉を深く理解していないため、すぐに良い行いをやめてしまう、という意味になります。
「いばらの間」タイプの人は、良く理解し実行しますが、いばらが生えてきて、要するに世の中の様々な思い煩いや欲望に邪魔されるという意味ですが、結局言葉通り実行することを辞めてしまう人です。
このお話は、現代の私たちにも実は経験のあるお話ではないでしょうか?ご両親や先生方から貴重なアドバイスをもらいながら、いつの間にか色々自分で理由を付けてアドバイス通りやらなくなる、なんて経験は誰しもあると思います。
では、「よい土」タイプの人とはどんな人でしょうか。それは、皆さんの様な人たちだと思います。顧問の先生や先輩、友人の指導やアドバイスをしっかりと聞き、苦しい中にあっても着実に実行した結果、それぞれに納得のいく実り(結果)を得られたのではないでしょうか。中には全国大会に出場する人たちもいますね。毎日の苦労が何十倍もの実り(結果)となった良い例ではないでしょうか。
でも、皆さんの「実り」とは大会の結果のみでしょうか。本当の意味で、「種」を大事に育んできた「土地」である皆さんが生んだ「実り」の中には、人にとって大事な「感謝」という気持ちが沢山生まれていると思いますよ。真に頑張った人たちには、自分の力だけでここまで来られたのではないことが分かります。だからこそ、自然に「感謝」の気持ちがわき出るのではないでしょうか。今日はこの集いの中で、皆さんと感謝の気持ちを分かち合いながら進めていきたいと思います。
おはようございます。
今日は、私が忘れられない言葉についてお話をします。
「大浦君、人を見るときにはその人の行動を見なさい。」
私が尊敬する先生が、私が教師になったときに、私への戒めとして最初に教えてくださった言葉です。
そう言っていくつか具体的に例をあげて説明してくれたのを思い出します。
●理屈だけ言って、自分は何にもしない人は、口先だけの評論家
●自分のことを棚に上げ、他人の文句だけ言っている人は、協調性に欠けた人
●一つのことができて世界を征服したような顔をして自慢する人は、教養がない人
●人に意見されることを嫌い、だからといって何にもできない人は、変なプライドだけで生きている迷惑な人
…そのときのメモを見るたびに、先生は私に何をおっしゃりたかったのかと考えつつ、今でも背筋が伸びて、自分のことを反省します。
人は誰でも自分のことが見えているようでよく分かっていません。いや、本当は分かっているんだけれども、気づかぬふりをしたり、あるいは、それが自分だからと開き直って過ごしているのかもしれません。
みなさんはいかがですか? 評論家になっていませんか? 協調性の欠けた人になっていませんか? どうでしょうか?
同時に全く逆のこともメモとして書いていました。
●口数は少ないのに、いつもきちんと仕事ができている人は本当に頭が良い人
●他人の悪口を一切言わずに、物知りで、困ったときに相談できるのは頼れる人
●人の言動を細かく冷静に見ていて、ここぞというときに行動する人は組織になくてはならない人
…30年も前に教えてもらったメモが、今でも当たり前に読めるのは、そのことが真理だからではないでしょうか。
京都大徳寺大仙院の尾関宗園(おぜきそうえん)という和尚様の言葉に有名な言葉があります。ずいぶん以前にも、朝の話で紹介もしました。私が聖和に勤務し今の第1パソコン室が設置された頃から、その後ろの白板に書いている言葉です。
心は、行動となり、
行動は習癖を生む。
習癖は品性を育て、
品性は運命を決する。
つまり、あなた方一人一人の心の持ちようが、あなたの行動に表れ、それが習慣となって、その習慣的な行動があなたの人となりを示し、それがまさに貴女の運命を決定づけていると教えてくれているのです。
カトリック系の学校としてこれを解釈すれば、神様はあなた方一人ひとりの心の有り様からくる、貴女の行いを見ておられますよ、ということでしょうか。
「大浦君、人を見るときには、その人の行動を見なさい。」
自分の戒めとしての、私の忘れられない言葉です。
先週、高校二年生は修学旅行で沖縄に行ってきました。
平和学習をしたり、いろいろな観光地を回ったりと、とても充実した4日間に
なりました。
2年生は5分前行動がきちんとできていて、いつも以上にテンションが高くて
とても楽しそうにしていました。
私は今回初めて沖縄に行きました。
そこで、私が特に印象に残っているのが「米軍基地」です。
テレビのニュースや新聞などで話題になっているので、なんとなくは知ってい
ましたが、バスガイドさんの説明を聞いていると初めて知ることばかりでした。
例えば、嘉手納基地がある嘉手納町は、85%の面積が基地に使われ、残りの
15%に住民が住んでいるそうです。そう言われて町を見ると、道路の片側は
どこまでも芝生の広がる嘉手納基地、反対側は密集した住宅地。基地は、ただ
芝生が広がっていているだけで、土地がもったいないと思ってしまいましたが、
何もない芝生の下にも爆弾や石油
などが収納されているそうです。いつも危険と隣り合わせで生活しているとい
うことが分かりました。基地は、沖縄にとってプラスの面もマイナスの面もあり、
どちらがいいと私は言えませんが、「知る」ということは大切だと感じました。
特にこの修学旅行を通して、「百聞は一見にしかず」ということを思い知ら
されました。百回聞くよりも、たった一度でも自分の目で見たほうが確かだと
いうことです。
これから冬休みに入ります。せっかくの長期休暇なので、いろいろなところ
に出かけてみて、自分の知識を増やしてみてはどうでしょうか。
おはようございます
みなさんは、今どんな夢を持っていますか?
その夢を形にするためにどのように過ごしていますか?
私たちは、みんな一日24時間という時間で動いています。
その24時間の使い方は、人によって様々です。
誰かと楽しく過ごそうとする人、ひとりでじっくり何かに取り組む人、
辛いことや苦しいことで悩みながら過ごす人……。
過ごし方は人それぞれですが、すべて意味のある時間です。
それは、その時間をどのように過ごしたかが自分に返ってくるからです。
ときには、どんなに時間をかけてもすぐに努力が実らないときもあるでしょう。
でも、24時間はみなさんに平等にあるものです。
せっかくなら、有意義に過ごしたいと思いませんか?
くじけそうな時は、良いことをイメージして口に出してみてください。
「叶う」という字は「くちへん」に「じゅう」と書きます。
「十」は「プラス」にも見えますね。
自分に「プラス」になることを口に出して、ぜひ夢を「叶」えてください。
先週 A先生から朝の話がありました。どんな話だったか覚えていますか?
心に残った所は、どこですか?
私は「伝統」についての話で「常に新しいものを伝えていくためにこれまで積み重ねられた功績を超えようと努力し、新しいものが生み出される」というところが心に残りました。それ以上で心を打たれました。
朝の話は、毎回担当の先生が、話を考えられます。
「心を込めて伝えたい」そんな先生方の気持ちで話をされています。それを自分の番になって改めて感じています。今日は、この話をする側と聞く側の気持ちや、姿勢について考えてみましょう。
まず、話をする側の話ですが、私自身この学校に勤務して16年目になります。新米の頃からいままで、多くの先輩の先生方の姿を見て、それを目標に今もがんばっています。その先輩方から先生という職業は「言うだけは誰でもできる、伝えられたか、伝えられなかったか」が大切で伝わっていなければ先生が悪いと思うこと!!を学ばせてもらっています。また、多くの先輩の先生方の中に、授業はこの人、HRはこの人、学年集会ならこの人、部活動ではこの人というように、新米教師だった私にとって生徒のみんなの聞く姿勢をつくり、伝えることが上手な先生方がおられます。今は後輩にあたる先生にもいます。
その先生方の一人が「人は聞こうとする心は誰もが持っています。その状況になるようにしてあげるには、じっと心で生徒を見ていたらわかりますよ。」と言われていました。特にその先生方に関わっている生徒たちは、人間的にも成長していて教師の私から見ても「尊敬できる」ところがありました。今も私の目標です。
さて、聞く側の話は、生徒のみなさんです。みなさんは「話す人が何を伝えたいのか、心において聞こう」としていますか?
先程言った「尊敬できる」生徒の多くはいくつかの部活動生で、聞く姿勢をそのクラブの伝統として、伝えられ伝えていた部分も多かったのではないでしょうか?
また、そうゆう部活も多く、お互いが高めあっていた気がします。
今、それが失われているとは、言いません。先日のワープロ部の県大会優勝、バレー部は春高予選を控え、目標に向かって多くクラブが「伝統として積み重ねられた功績、を超えよう、新しいものを生み出すため努力しよう」という人たちは、たくさんいます。だからこそ、聞く姿勢を大切に伝統として守り続けて欲しいと思います。
逆にそう考えると授業中寝てしまうこと、指示をしっかり聞いていなっかたりして自分が忘れてしまっていたという部分があるひとは、「相手が何を伝えようとしているかを心にとめて聞く」ことで、自分自身、そしてみんなが成長できると思います。
そのことは、話をする側、話を聞く側のお互いが幸せになれると思います。
おはようございます。
先日の「音楽のつどい」は、卒業生をはじめステージに立った生徒の皆さんはもちろん、係生徒や聴衆として盛り上げてくれた皆さんのお陰で、素晴らしいものになりました。その中でも高校コーラス部の3年生にとっては昨年までとは違う思いがあったのではないでしょうか。何か心を打たれるものがありました。3年生の活躍は新しい伝統を聖和にそしてコーラス部に積み重ねてくれたと思います。
話は変わりますが、この伝統とは何でしょうか。皆さんはどう考えますか。これまでの功績を守り、前の人の跡を受け継いでその通りにしていくことでしょうか。私はそうではないと思います。学校で言えば、常に新しいものを後輩に伝えて行くために、これまでの積み重ねられた功績を超えようと努力し、新しい物へと改善しつづけていくことこそが、本当の伝統であると思います。
「伝統は関係ない」、「伝統は意味がない」と言う人もいるかもしれまん。しかし、私たちは聖和女子学院がいまあるからこそ、色々なことを学び頑張ることができているのだと思います。聖和女子学院の伝統が受け継がれてきたからこそ、今、私たちは頑張れる場所を持つことができています。これまで、多くの卒業生が過去に道を切り開き、現在の基礎となるものを築いてくれました。現在聖和にいる私たちは、学校行事やクラブ活動など様々な活動や取組において、ただ伝統を守るだけではなく、伝統の中から何かを感じ取り、これまでの伝統を大切にしながらも、そこから新しいものを生みだそうと努力することが大切ではないでしょうか。
生徒の皆さんがあらゆる分野で先輩方を超える新しい功績を残して行ってくれること、そして、新しい聖和を築き上げてくれることを期待してします。
今朝はこれで終わります。
先日、本校で作曲家松下耕先生の直接指導による合唱講習会が行われました。
係として私も参加できたのですが、その時のお話をします。
松下先生は、作曲家活動だけでなく、合唱の指導もしている先生で、各地の合唱コンクールの審査委員も務めまた世界各地で演奏活動されておられるそうです。
先生がおっしゃるには、このごろは、コンクールの曲で難しい曲に挑戦する所が日本では多い。そうゆう曲を演奏できたら本当にきれいに聞こえる。しかし、そうゆう難しい曲に挑戦することも大事だけれど、本当に美しい歌とはなんだろうか。
じぶんがいいなあと思ったのはあるヨーロッパの8人ぐらいの合唱団であった。宗教曲であったが本当にかんどうした。
指揮者もなく、目配せもしないで曲が始まったのだけれど、とてもすばらしく。
スーッと1つまとまって、とてもきれいでとても心にしみてまさに奇跡の合唱だと思ったとのことでした。
松下先生自身、カトリックの信者さんで、毎週奥様と二人で教会へごミサを預かりに行かれるそうです。
そこでもやはり、歌う曲と言うのは神様にささげるために歌うのであって、間違えてもいい、神様に心を伝えるために歌った曲は本当に感動でき、涙が出るほどのものになるとおっしゃっていました。
わたしたちも毎日聖歌を歌います。
8時35分から始まる毎日歌う聖歌に皆さんはどれだけの思いを込めているでしょうか?
8時30分の予鈴が鳴ったら心を落ち着け身だしなみを整え準備をして時が来るのを待ち聖歌の時間に備える。ただ歌うのではなく神様に心を込める。自分の気持ちをささげる
自分の気持ちをどこに向かわせるか、カトリックの学校ですから、漠然とした神様でなく、例えば教室の左側正面上の十字架に向いうたう。例えば右側の以前内藤先生が用意していただかれた教室に掲げてある、各クラスを守って頂いている聖人の肖像に向かって歌う。
皆さんは心をこめて歌っているでしょうか?
私も、毎日の聖歌の時間を本当に大事にしたいなあと、松下先生の話をうかがって、改めて振り返る事が出来た一時でありました。
今朝はこれで終わります。
30歳という節目の年を目前に控え、20歳、10歳の頃をよく思い出します。20年前の夏、25メータープールのスタート台に立っていたその日は、タイム測定のテストがありました。カナヅチで、それまで25メーターを一度も泳ぎ切った経験がなく、極度の緊張で青ざめ震えていたのを覚えています。記録は3分15秒。飛び込みでは水面に腹を打ちつけ、激痛に耐えながら、プールの底に足をつけることなく、たくさんの水を飲み込み、クロールが続かず犬かきも交えながら、息も絶え絶えにゴールへ辿り着きました。もちろん、他のコースで泳いでいた友だちはとっくにゴールしており、プールサイドで百人以上に見つめられながら応援されながらのゴールでした。初恋の同級生がプールサイドで見ていたことも、最後まで泳ぎ切れた要因かもしれません。
人並みに泳げるようになった今でも、得意ではなくむしろ嫌悪感を抱いている水泳。付き合いでプールや海水浴へ遊びに行く時は、恰好だけでもつけようと、腹筋や胸筋をムキムキに鍛えていた若かりし自分。とにもかくにも、無我夢中に、もがき、苦しみ、やりきったあの3分15秒は、計り知れない自信と達成感、誇りを私に与えてくれました。
それから約2年後、第一目標にしていた中学校の入試会場で、『遠泳』をテーマにした国語の物語文と対面した私は、手も足も出ませんでした。『遠泳』の意味そのものが分からないので、物語の背景や登場人物たちの気持ちが全く理解できなかったのです。得意にしていた国語で点数を稼げなかったのが致命傷となり中学受験は失敗。父親の勤務先でもあり、広島県内で最もレベルの高いカトリック教育を実践していた学校でもあったので、これは大きな大きな挫折でした。
去年の朝の話で私は『人生とは交差点の連続であり、どっちへ曲がるか、曲がらされるかを繰り返し続けて今の場所にいるのだ』という旨の話をしました。今、聖和で、社会科の教師として話が出来ているのもこの挫折があったから、そう思えば後悔はしていません。ただ、今でも反省をしています。
もっともっと言葉を、単語を、熟語を、表現を、常識を知らなければいけない、貪欲に学ばなければいけないということです。「一円を笑う者は一円に泣く」という格言ではありませんが、「知らなかった1つ、知ることを怠った1つが命取りになる」ということも人生にはつきものなのです。
賢い皆さんはきっと、教科や科目で向き合っている「1つ1つ」を、これまで以上に大切にしてくれると信じています。若い皆さん、もがいていますか?何事にも真剣に取り組んでいますか?オンとオフの切り換えはしっかりできていますか?先生方の言葉には真剣に耳を傾けていますか?今日の6時間、ないしは7時間の授業でいくつ学べますか?気は早いですが、11月の期末考査、卒業考査、全力投球で臨んでください。受験生は最後までねばる。以上です。