心のとびら

先生から伝えたい言葉

生徒の皆さんの心に留めておいて欲しいことを先生が交代で話をします。

おはようございます。

 今から9年ほど前に大学に入学した私は、とにかく生活のために入学して10日もたたないうちにアルバイトを始めました。
人生で初めてお給料をいただいたお仕事は、町の小さな回転寿司屋さんでの、ホールスタッフのお仕事でした。お客様のご案内や注文受け、お皿を数えてお会計や、お客様がいらっしゃらないときには清掃などのお仕事をしました。

 このお仕事を始めて間もないころ、常連の中年の男性のお客様のお会計を担当した時のことでした。
「2,630円になります」何気なく言った一言が、お客様の逆鱗にふれてしまいました。
「なります。って言葉おかしいだろ!!」と怒鳴られました。
私は驚いてその場に茫然と立ちつくしていました。そして、人前で怒鳴られたことと悔しさで、後で、休憩室で、一人で泣きました。
「~になります。」という言葉づかいが間違っていたことは分かってたし・・・
教えてもらったまま言っただけだし・・・
その教えてくれた先輩の前で、言葉づかいを直すなんて失礼だし・・・
など言い訳を沢山自分の中で巡らせて、自分を慰めました。

しかし、その後、その方を恨んで言い訳ばかりをいっても仕方ないと考え直しました。
言葉づかいのことで、お客様には、もちろん自分のためにも納得して使おうと心に決め、正しい言葉づかいが分からなければ、調べてみたりもしました。

 今では私を怒鳴ってくれたお客様に感謝しています。その方が注意して下さらなかったら、私は間違ったことばを使い続けただろうし、言葉づかいについて考えることはなかっただろうと思います。
 初めは素直に聞き入れられませんでしたが、その後、悔しいという思いから自分なりに考えて行動できたのではないかと思います。

 どんなことがきっかけで、自分が成長するチャンスになるのかは分かりません。
みなさんも日頃、うまくいかないことや、先生は親子さんから、注意を受けて悔しい思いをすることもあるでしょう。それをチャンスにするのも、埋もれさせるのも自分次第だと思いませんか。

今朝はこれでおわります。

結果とプロセス、どちらが大事か。
学生であれば試験や部活動での試合、社会人となれば仕事と
この2つが問われることは少なくない。
どちらも欠くことができない大事なものであるが、
人として成長させるものはプロセスではないだろうか。
結果は人に自信をつけ喜びをもたらす一方で、人を惑わしたり陥れたりする。
結果はウソを言うときがあるが、プロセスはウソを言わないのである。

プロ野球選手のイチローは次のように言う。
 結果とプロセスは優劣をつけられるものではない。
 結果が大事というのは、この世界でこれなくしてはいけない、
 野球を続けるのに必要だから。
 プロセスが必要なのは野球選手としてではなく、人間を作る上で必要と思う。
また、こうも言う。
 負けには理由がありますからね。たまたま勝つことはあっても、たまたま負けることはない。
 本当の力が備わっていないと思われる状況で何かを成し遂げたときの気持ちと、
 しっかりと力を蓄えて結果を出したときの気持ちは違う。

人はそれぞれの立場で目標があり、目標を達成することで人として成長する。
プロセスが準備不足であったり、多少甘かったりしたときでも、
何かしら結果が出てしまうことが時にある。
そうしたときの結果には注意が必要で、そこで天狗になってしまうと、
次に思わぬ落とし穴にはまってしまうことが往々にして起こるものである。
これは結果を出すことを否定しているのではない。
結果を求めないプロセスは惰性や無責任を生むからだ。
また、結果が出ることによって、それまでのプロセスが報われることになる。
結果におごることなく、足らなかったプロセス、甘かったプロセスを見直し、
次に向け気を引き締めてスタートすることで、更に成長できるのである。

(参考 MSNトピックス)


昨年末に、あるテレビ番組で日本体育大学の女子学生が、今まで男子学生にだけ許され
ていた競技「集団行動」にチャレンジした様子が放映されたのを見て、これだと思いまし
た。『ただみんなで歩くだけ』、『ただみんなで走るだけ』、『ただみんなで号令通りに動いているだけ』。こんな単純な行動に人は感動し、ため息をつき、涙するのだと改めて知った私は、今年の体育祭で是非中学生にこの演技をさせたいと思いました。
しかし実際は、『ただみんなで歩くだけ』とう単純作業がなかなか思うようにいかず、生徒からは「先生、80人の足音をひとつにするなんて無理なんじゃないですか」という不安の声が上がっていました。そんな不安を解消させるために何度も何度もひたすら歩いたり、ひたすら走ったりしているうちに、本番当日にはなんの指示もなしに生徒は円陣を組んで互いに声をかけ合ったり、その場で足踏みをして心を一つにしたりと、自然とみんながひとつになっていました。
「本番は練習の8割できればいい」なんて誰が決めたのでしょうか。今まで炎天下の中
何度も何度も練習してきましたが、本番が一番最高の演技でした。
この集団行動を通して、様々な感動がありましたが、そのひとつは、先輩は後輩のため
に、後輩は先輩のために一生懸命になっていた、ということです。
練習の時、1年生の歩行がなかなか揃わず、本人たちは焦りや不安を抱えていましたが、2・3年生に迷惑をかけたくない、2・3年生にとって中学校最後の体育祭で絶対に先輩の役に立ちたいという思いで、体育祭の1・2週間前から、昼休みを使って自主的に練習を始めたのです。
1学期当初から何度もDVDを見て動きを研究し、時にはぶつかり合いながらもきっちり
まとまっていった3年生、あなたたちの思いはちゃんと後輩に伝わりましたよ。そして、
1年生のお手本となり3年生を支えた2年生、中堅学年として本当によく頑張りました。
3学年が、それぞれの色にキラキラ輝く演技でした。

もちろん、頑張ったのは集団行動だけではありません。体育祭のためにテントを張った
り、草抜きをしたり、応援練習に明け暮れたり、企画運営をしてくれた生徒・そして先生
方、本当にお疲れ様でした。一時は降水確率100%と言われていた9月9日でしたが、
奇跡的に全競技を無事終えることができたのも、聖和のみんなの熱い思いが通じたからだ
としか思えません。

これからもどんな困難にも負けない強い絆、そしてたくましい聖和魂を後輩たちに引き
継いでいってほしいと願います。

中学3年担任 保健体育科の川本でした。今朝はこれでおわります。

みなさんおはようございます。 

中学生の皆さんには少し難しいかもしれませんが、『天網恢恢疎にして漏らさず』という言葉について話をしてみたいと思います。

本来の意味は,“誰も見ていないところで悪い事をしたとしても、そのときは罰を受けるようなことは無いが、きっと天罰を受けることがある”ということです。

私が、ある方からこの言葉を聞いたときには、何か悪いことをしているのかと考えてしまいましたが、
その方は、悪い行いを・・・“良い行い”あるいは“小さな努力の積み重ね”と置き換えてみてはどうでしょうかとお話をして頂きました。

 なるほど、人の目の届かない所で良い行いの積み重ね、小さな努力の積み重ねをすることで、きっと、良い成果が表れたり、認められたりすることがあるというようにも捉える事ができるのではないかという事です。

  もうすぐ夏休みに入ります。全校生徒の皆さんには、前者の意味での『天網恢恢疎にして漏らさず』、進路決定に向かっている中学3年・高校3年の皆さんには、
後者の意味での『天網・・漏らさず』

を心に刻んでこれからの生活を送ってみて下さい。

おはようございます。

最近、私はある言葉が心に残り、「そうだな~」と思う言葉と出会いました。
それは、「人生、クレッシェンド」という言葉です。

 この言葉は、合唱曲をたくさん作っていらっしゃる作曲家の 松下 耕 先生の言葉です。
昨年11月、松下先生の合唱講習会を聖和で開催することができ、その時に話されたことばの1つででした。

 「クッレッシェンド」という言葉は聞いたことがあると思います。
 音楽用語で、「だんだん大きく」という意味をもっています。この楽語の意味から考えると、「人生はだんだん大きく」という意味になります。
 これをもっと分かりやすく言いますと、人は亡くなるときに、最高に幸せだなぁーって時に死ねるように生きていこうということなのです。つまりクレッシェンドは、自分が思う幸せの大きさを表してあります。
 そして先生が、何よりも伝えたいメッセージがこの言葉の中にありました。
それは、中学校や高校生の
みなさんが、今、悩みや苦しみ、そして悲しみは、殆どの人が持っている。それは、これから大人になるために、必ず乗り越えなければいけないことで、これを乗り越える「力」をみなさんは必ず待っている。
 そして、乗り越えた先には、幸せが必ず待っている。だから、今心にある悩みにくよくよせず、向き合って欲しい!!
という事を先生が一番に伝えたいことだったのです。

 「人生、クレッシェンド」
これは、悩み、苦しみ、そしてその後しか味わえない幸せを、何度も繰り返すことで、幸せの大きさがだんだん大きくなっていく。そうやって、人は年齢を重ねていく。
ということだったのです。

 自分が、おばあちゃんになったとき、毎日を幸せに過ごせる生き方ができればいいなと心から思いました。
 今年、中学・高校のコーラス部が、コンクールで歌う曲は、こんなメッセージを残してくれた 松下 耕先生の曲を
歌います。
 音楽室まで、どうぞ聴きに来てください。

今朝は、これで終わります。

2012/06/26
M.S.

 おはようございます。
早いもので、あと数日で半年が過ぎようとしています。
みなさんはこの半年をどのように過ごしてきましたか?

 高校1年生は先週の金曜日22日午後から、学年黙想会のために俵町教会に行きました。「今すべきこと」のテーマのもと、これまでの日々を振り返る貴重な時間を過ごしてきました。
 1年生の中には、初めて教会に入るという生徒も多く、神聖な場所というイメージからか、席に着くまで、おしゃべりする人もなく、静かな中で黙想会が始まりました。
 今日はその時に朗読された聖書のことばを紹介したいと思います。


聖書マタイによる福音「十人の乙女のたとえ話」(25章1節~13節)

「その時の天の国は、あかりを手にして花婿を出迎えた十人の乙女のことにたとえられよう。そのうち、五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな乙女たちは、あかりは手にしていたが油は用意していなかった。しかし賢い乙女たちは、あかりといっしょに、器に入れた油も持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆、眠くなり、そのまま寝込んでしまった。
 夜中に、「さあ、花婿だ。迎えに出なさい。」と叫ぶ声がした。乙女たちはみな起きて、それぞれあかりを用意した。その時、愚かな乙女たちは賢い乙女たちに、『油を分けてください。
あかりが消えますから』と言った。すると、賢い乙女たちは答えて、『油はあなた方に分けてあげるほどはありません。それよりも、油屋に行って、自分の分を買っておいでなさい』と言った。
彼女らが買いに行っている間に、花婿が着いた。用意のできていた乙女たちは、花婿と

一緒に婚礼の祝宴場に入り、戸は閉められた。その後で、あのほかの乙女たちが来て、
『主よ、主よ、どうぞ開けてください』と言った。
すると、主人は、『あなた方によく言っておく。わたしはあなた方を知らない』と答えた。だから、目を覚ましていなさい。あなたたちはその日、その時を知らないからである。」


私たちはひとりひとり、体力、気力、知力も異なり、その上、異なった家庭環境の中に身を
置いて日々を過ごしています。そして、その中から生まれる「自分」の願いを叶えるべく生きています。
既に「賢い乙女」である生徒のみなさんは、「花婿」や「あかり」「油」が何の譬え
であるか、おわかりかと思います。目の前にあるテスト勉強だけではなく、将来の、他の誰でもない「自分」の人生のために「今何をなすべきか」しっかりと考えたいものですね。
今朝はこれで終わります。

2012/06/20
H.K.

 みなさん、おはようございます。

 今朝は、ベストセラーとなった『笑顔になれば』の著者、福田純子さんのお話をしたいと思います。
 福田さんは、現在、アナウンサーとしても活躍されていますが、入社したばかりの頃、先輩のアナウンサーから、「暗い声ね。アナウンサーには向いてないんじゃないの・・」といつも言われ落ち込んでいました。アナウンサーを辞めようか、真剣に悩んだこともあるそうです。しかし、福田さんは、声をカバーするために、笑顔を絶やさないように決心します。

その後、大活躍をするようになって、ある人に、「あなたは、アナウンサーで、人気もあってお金持ちね。楽しいことばかりだから笑っていられるのよ。私は、きつくて、嫌なことばかりだから、あなたのように笑っている余裕はないわ。」と言われたそうです。

福田さんは、「笑ってるからこそいいことがあるんです。幸せという漢字のなかにも、辛いという文字があるのに、あなたは、気づいていますか。私は、不幸だ。つまらない人間だ、と愚痴をこぼさないで、幸せという言葉、前向きな言葉を口癖にしましょう。自然と楽しくなってきませんか。」
と、答えました。

私は、よくみなさんから「草野先生は、声が大きくて元気になれる。」と言われます。しかし、私は、大きな声をだすのが、正直苦手です。みなさんが笑っているから、声も大きくなり、元気になります。笑顔で、前向きな気持ちでいることは、必ず周りの人に幸せを与えることになるのではないでしょうか。今朝の話はこれで終わります。

 おはようございます
今朝は、詩を一編 ご紹介します。

虹の足     吉野 弘

雨があがって
雲間から
乾麺みたいに真直な
陽射しがたくさん地上に刺さり
行手に榛名山が見えたころ
山路を登るバスの中で見たのだ、虹の足を。
眼下にひろがる田圃の上に
虹がそっと足を下ろしたのを!
野面にすらりと足を置いて
虹のアーチが軽やかに
すっくと空に立ったのを!
その虹の足の底に
小さな村といくつかの家が
すっぽり抱かれて染められていたのだ。
それなのに
家から飛び出して虹の足にさわろうとする人影は見えない。
── おーい、君の家が虹の中にあるぞオ
乗客たちは頬を火照らせ
野面に立った虹の足に見とれた。
多分、あれはバスの中の僕らには見えて
村の人々には見えないのだ。
そんなこともあるのだろう
他人には見えて
自分には見えない幸福の中で
格別驚きもせず
幸福に生きていることが──。

私たちは普段、当たり前のように過ごしています。
皆さんにとって、幸せだと思う時は、どのような時でしょうか。
日々の中には、楽しい日もあればつらい日もあるでしょう。
しかし、この詩にもあるように、
私たちは「他人には見えて 自分には見えない幸福の中で」
「幸福に生きている」のです。
今という時を大切にして、「当たり前のこと」は幸せなことだと心にと
めて、毎日を過ごしたいですね。

…今朝はこれで終わります。

おはようございます。

今朝は、4月末に行われたAPU研修についてみなさんに報告したいと思います。

今回のAPU研修は、佐賀の北山少年自然の家で行われました。46名の生徒さんの参加で、

引率は、S先生、T先生そして私の3人でした。APUの国際学生は10カ国から10名の参加で、出身国はアメリカ、韓国、ミャンマー、ウズベキスタン、ベトナム、ガーナ、コロンビア、インド、パプア・ニューギニア、タイの10か国でした。現地に着くと、国際学生のみなさんが、歓迎のダンスで迎えてくれました。すぐに1グループ5,6人の8グループに分かれ、それぞれのグループには国際学生が1名お世話係として担当してくれました。もちろん、彼らとコミュニケーションをとるのは英語です。

一日目、「不思議の国 日本」というテーマでグループ毎に国際学生が感じた自国と日本の違い「トップ5」を紹介してくれました。その中で、「日本では、お店に入ると何も買わなくてもありがとうございますということ」とか「信号は、日本では青にならないと渡らない」とか「日本人は温泉では、何も着ないではいること」など私たちが当たり前だと思っていることが、彼らにとっては驚きだったようです。やはり、日本人は礼儀正しく、マナーがよくて、優しく親切な国民だと外国人には思われているようです。また、世界発見と題して、国際学生が、自国の文化や習慣を紹介するブースを時間ごとにローテーションしながら見学したり、生徒さん一人ひとりが将来の夢を一人ずつ英語で発表する場面もありました。

二日目は、国際学生の「出身国の高校生活」ということで発表があったり、彼らと映画やスポーツ、音楽などについてディスカッションを行ったり、「今、私ができることー家族、社会、日本や世界に対して」についてグループ毎にそれぞれ自分たちの考えをまとめ、最終日のプレゼンテーションに備えて準備を進めたりしました。また、世界の文化祭では、国際学生が自慢できることを披露してくれたり、生徒さんも日本文化について発表しました。S先生もサプライズで、マジックを披露してくれるという名演技の場面もありました。

三日目は、最終日ということで、二日目から準備を進めていた「今私ができること」と題してグループごとにまとめた考えをもとにプレゼンテーションをしました。各グループ国際学生のお手伝いもあり、素晴らしい発表でした。最後は、記念撮影をして、涙・涙のお別れとなりました。そして最後の最後に、驚いたことが一つありました。国際学生の一人が、「実は、私は英語より日本語の方が上手に話せます。だから、みなさんが日本語で話していたこと全部理解できていました。」と流ちょうな日本語で話してくれたのです。私たち引率側もですが、生徒さんの驚きようといったら、言うまでもありませんよね。

三日間という短い期間でしたが、世界各国から様々な文化的背景を持つ国際学生との出会い、また彼らとの英語による活動・交流を通して、多様な文化に対する理解を深めることができたこと、英語を使ったコミュニケーション力を身につけることができたことは、今回の大きな成果だったと思います。何よりも生徒さんの帰るときの表情が、研修を終えることができた充実感と自信にあふれていました。そんな生徒さんの表情を見ると、私も生徒さんが誇らしく、よく頑張ったねと褒めてあげたくなるほどでした。今回引率させていただき、私自身もいろいろな出会いがあり、みなさんの日頃学校では見られない意外な一面を発見できたり、有意義な三日間となりました。

みなさんも、機会があれば来年度是非参加して、国際人としての第一歩を踏み出してみませんか。

さて、高校生は明日から、中学生は明後日から第一学期の中間考査が始まります。

一年の中で5回ある定期考査の中で一番範囲が狭く、点数が取りやすいと思いますので、

最後まであきらめず、しっかり取り組んでいただきたいと思います。頑張ってください。

私は生徒たちから、
 「おはようございます 先生!」と言われると、
 「おはようございます 生徒!」と応え…
 「さようなら、先生!」と言われると
 「さようなら、生徒!」と応えています。
…こだまでしょうか?
 「それってどうしてなんですか?」とよく尋ねられますが、それは、
そう応えたときの生徒達の笑顔が見たいからなんです。

 昨日、長崎のある高校に出かけてきました。
その高校でも、私のような外部からの人に対し、とても良く挨拶をしてくれました。
特に男子などは、厳しくしつけられているのか、廊下の遠くからでも、
「ちわっ!」「ちわっ!」と立ち止まって大声で挨拶をしてくれて、以前私が男子生徒が多かった学校に勤めていた頃のことを思い出しました。

 あらためて、今日学校に来てみて思ったことは、聖和の生徒の方が笑顔が可愛いなぁ
ということです。もちろん男子より可愛いのは当然でしょうし、自分の学校だからよく
見えているのかも知れません。
 しかし、「おはようございます、先生」という挨拶と同時に、ニコッと微笑んでくれる笑顔に、なんだか我が家に帰ってきたような“癒し”をもらいます。
 聖和には、中学生もそうですし、高校生のどの学年にも、とても挨拶が素敵な人が多いと思います。
 挨拶一つで、相手を元気にすることもできますし、逆に「おはようございまぁす」と
うつむき加減で目も合わせずに弱々しく言われると、どうしたんだろう何かあったのかなぁ…、元気がないなぁ、とその人の精神状態まで憶測してしまいます。

 先日、ある会社の社長さんを訪ねて会社を訪問した際に、受付の方の応対が実に素晴らしく、用事を済ませた最後に社長さんにそのことを伝えました。
すると、「先生さすがですね~。
実はあの子が来てから、会社の業績が間違いなく上がっているんですよ。」
「世の中がどんなに不景気だろうが、会社の業績が悪かろうが、嬉々として働いてくれて明るさを提供してくれる社員は、会社にとって何よりの財産なんですなぁ。」と教えてださいました。
「聖和さんもそんな生徒さんがたくさんいらっしゃるんじゃないんですか?」と言われたので、
「はぁい、うちはそのような生徒が育つ学校なんですよ。」と応えました。

 たかが挨拶一つと侮るなかれ、あなたの人柄がにじみ出るのも挨拶だと思って周囲の人に元気を与える挨拶を心がけましょう。

今朝はこれで終わります。