心のとびら

先生から伝えたい言葉

生徒の皆さんの心に留めておいて欲しいことを先生が交代で話をします。

おはようございます。
 今日は「当たり前」というタイトルの詞を紹介します。これは、若き医師、井村和清先生が病の床で綴った手記、「アスカへ、そしてまだ見ぬ子へ」という本に納められています。
 井村先生が大病院の勤務医として、患者さんにとても慕われながら、多忙な毎日を送っているとき、右膝のがんが見つかります。転移をを予防するために、右足を切断します。その後リハビリで復帰されますが、まもなく一番恐れていた肺への転移がみつかります。
 肺がんのために、呼吸がとても苦しい闘病生活の中で、父として、夫として、生きた証を残したいと、書かれたものです。長女のあすかちゃんは、まだ1歳、そして二番目のお子さんは、まだ奥さんのおなかの中でした。

あたりまえ
あたりまえ
こんなすばらしいことを、みんなはなぜ喜ばないのでしょう。
あたりまえであることを おとうさんがいる   おかあさんがいる
手が二本あって、足がにほんある。
いきたいところへ自分であるいてゆける
手を伸ばせば、なんでもとれる
音が聞こえて、声が出る
こんなしあわせはあるでしょうか

しかし、だれもそれをよろこばない
あたりまえだと、わらって済ます
食事が食べられる
夜になるとちゃんと眠れ、そしてまた朝がくる
空気をむねいっぱいにすえる
笑える、泣ける、叫ぶことも出来る
走り回れる
みんなあたりまえのこと

こんなすばらしいことを、みんなは決してよろこばない
そのありがたさを知っているのは、
それを無くした人たちだけ
なぜでしょう
あたりまえ

井村先生は、この3週間後に31歳のわかさで旅立たれます。奥さんと子どもを残して。どんなに無念だったでしょう。私も、10年前、父を病でなくしました。しばらくの間、私は、街角や公園で、両親と子どもたちの仲の良い家族の姿を眺めては、涙が出たのを思い出します。

 普段、私たちが「あたりまえだ」と気にかけていないことも、考えてみると、「とても有難いことだ」と気づかされます。生きていること、それは一つの奇跡なのです。
今日は、「あたりまえ」という詩を紹介しました。みなさんの生き方に、何かヒントになれば幸いです。
今日一日が、良き日になりますようにお祈りします。

 

25メートルを泳ぎきるのに皆さんは何秒かかりますか?私は180秒、3分かかりました。生まれて初めて25メートルを泳ぎきったのは小学校3年生の体育で行われた測定テスト本番の日でした。水泳が大の苦手だった私の泳ぎ方は、クロールやバタフライ、平泳ぎ、犬かき等すべてが混ざったようなもので、周りから見ていたら本当に溺れているように見えたそうです。当時好きだった女の子がプールサイドで見ていたこともあり、死ぬほど恥ずかしい気持ちもありましたが、遂に泳ぎきった後の爽快感と達成感は生涯忘れることはないでしょうし、大きな大きな自信となりました。その日以来、私の目に映る風景、世界は確実に変わったのです。全力を出し切った経験が感覚にまで大きな変化を与えたのかも知れません。

17歳だった私は、ホームステイも兼ねた修学旅行でイギリスにいました。日本人同士数人でサッカーをしていた公園に、犬を散歩させていた同い年くらいの現地の少年たちがやってきました。突如囲まれた私たちに向けて、彼らは人種差別を意味する言葉を浴びせたのです。「Eat Yellow !(=アジアからやって来た黄色人種を食べてしまえ!)」と、連れていた犬にけしかけたのです。アジアの人びとが欧米で差別を受けることがあるのは何となく知ってはいました。「自分だけは大丈夫だろう(=まさか差別は受けないだろう)」と根拠もなしに思っていただけに、大きな衝撃を受け、悔しさと悲しさでしばらく呆然としていたのを覚えています。しかし、折角の貴重な修学旅行でいつまでも呆然としたり悩んだり泣いたりしている時間が勿体無いと思い、気持ちを切り換えて残りの修学旅行を過ごしたこともはっきりと覚えています。生まれて初めて差別を受けた経験も、私の目を通して見える世界に変化を与えました。皆さんもこれからの人生において、全力で取り組まなければいけないことに直面し、切り換えなければいけない瞬間が必ず訪れると思います。どうかそういう場面を乗りこえていって欲しいと強く願います。「変化は成長を促す」見える景色が変わる経験をぜひ積んでください。

しばらく時間が過ぎてしまいましたが、改めて昨年の11月23日の全校応援、ありがとうございました。
聖和の皆さんの応援の力が歴史を変える勝負の流れを引き寄せてくれました。
そして、春高への募金や支援活動、本当に感謝しています。

 今朝はこの大会の中で、気づいたことの一つをお話ししたいと思います。
担当は バレーボール部顧問、1年A組副担任です。

 今でも、皆さんに「2セットと先取された場面からよく逆転できましたね。」と尋ねられます。 なぜかといえば、バレーボールの技術よりも「諦めなかったこと」でしょうか。 誰が諦めなかったのか。なぜ諦めなかったのか考えます。
 バレーボールで試合に勝つために必要なことは、 ボールを落とさないこと。そして、相手のコートにボールを落とすことです。

 苦しい状態のトスほど、得点のチャンス。私たちが全国を目指しチャレンジしている姿です。 スパイカーの下では、フォローに入る仲間のプレーが、スパーカーに攻める勇気を与えています。ブロックに当たってコートに入ってきても、仲間が落とさない。つなぐ。 それを信じて、高いブロックに向かって、ボールを打ち込みます。

 優勝を決めた15点目の得点も、決して打ちやすいトスではありませんでした。 センターへトスは、苦しい状態でのスパイクとなっていました。それを、しっかりと攻めて得点できた聖和らしいプレーだったと思います。
 こんな場面がたくさんあったこと。これが諦めなかったことなのではないでしょうか。

・私が諦めなかったことは、 5セット目の終盤、聖和のミスで13-13につかれました。相手のサーブからのワンラリー。タイムアウトで流れを切ることを我慢して、選手のプレーを信じ、「任せました」。
 選手がボールを落とさない。逃げずに得点を取りに行く。練習してきた判断と動きを出し切る。選手たちのプレーを信じることを諦めませんでした。
 「もうだめだ」と思い、やめてしまうことは自分だけの決断で行動できます。 諦めることは自分一人でできます。
 しかし、 「諦めないことは自分一人ではできないこと」だと感じました。
繋いでくれる仲間がいること。決めてくれる仲間がいること。応援してくれる仲間がいること。ボールを落とさない。得点を取ることを信じて、支える仲間がいないと、 諦めないことは、負けないこと、勝つことには繋がりません。
 私も自分一人では、諦めないことはできませんでした。 信じられる選手がいなければ、諦めないことが「任せること」にはなりませんでした。
 諦めないことが、試合に勝つとことにつながったのは、信じられる仲間がいたから。 「信じられる仲間がいた」から、「諦めないことができた」のだと気づきます。
 身長の高さではなく、華々しい競技実績や経験ではなく、 信じることができる仲間を作り、諦めないことができるチームであったことが 私たちの強さだったのではないかと思います。
 信じられる仲間づくりは「日々の積み重ね」です。 共に過ごし、練習する時間の中で、いろいろな出来事が起こります。お互いに、何を考え、どう行動しているか。一日一日の付き合い方が信頼を生み、諦めないことができるチームに近づいていくのだと思います。ごく身の回りに、勝負の始まりはあると思います。

 14年ぶりの春高出場の後、私たちは次のチームへと時代を受け継ぎ、新たなスタートを切りました。8日からは全九州選抜大会へ出場します。 これからの仲間と勝負を見つめ、一つ一つ聖和のバレーボールの歴史を作り上げていきます。再び聖和女子学院が全国の舞台で日本一を目指し、戦う姿をお見せできるように頑張っていきます。近いうちに、また、皆さんと決勝戦を楽しみたいですね

今朝はこれで終わります。

 

皆さん、おはようございます。

 明日が終業式、そして平成29年もあと10日余りとなりました。
 皆さんはこの一年をどのように過ごしましたか?

 楽しいこともありますが、うまくいかないこと、なかなか結果が出せない・・・など、悩むこともあったのではないでしょうか?  今日は私自身が心に残った、あるお医者さまとのお話をします。

 その方は、「医師の日野原重明先生」です。
 今年の7月に105歳でお亡くなりになりましたが、聖路加国際病院の名誉院長であり、現役の医師として活躍され、地下鉄サリン事件の際は患者さんに寄り添い多くの命を救われた先生です。
 たった一回ですが、私はその先生にお会いする機会がありました。それは数年前にアルカスSASEBOでの「新老人の会」という講演会があり、そこにコーラス部として出演させていただいた時のことです。
 その時すでに100歳を超えられていましたが、しっかりとした足取りでステージに登場され、ユーモアを交えたお話を立ったままでされました。また先生が作られた歌を先生の指揮で一緒に歌うことができました。以前から有名なお医者さまとしてTVに出演されていましたので、知ってはいましたが、ピアノを弾かれることや、音楽のもつ力を重要視されていることや、NHKコンクールの課題曲の作詞を手がけられたこと。その他、たくさんの著書があり、執筆活動のために睡眠時間は4~5時間であることを知りました。それまで時間が足りないもっとほしいと毎日をあくせく過ごしていた私に、すごい先生がいらっしゃるんだなぁと、たいへん驚いたことを覚えています。
 今日はその日野原先生の「命の言葉」をひとつ紹介します。
「人生には無駄というものはないもの。
 しかし、後にならないと、その意味がわからないということがたくさんあるのです。
 つらいことでも苦しいことでも、「体験」したことは、間違いなくその人の強みになります。」

 高校生は予選会、中学生は集団行動の発表が今日は行われます。
 高校3年生、中学3年生は今日のこのひとときをしっかりと楽しみ、
 そして毎日が大切な積み重ねとなるよう応援しています。

 担当は中学3年1組の担任でした。
 今朝はこれで終わります。

 

おはようございます。3年担任、家庭科のK.Sです。 
聖和に先週、先々週とオーストラリアからの留学生が来校しましたが、私は先々週のセント・マーガレット・メアリーズカレッジもコフスハーバーも訪れたことがあります。 それは、先日同窓会の会長さんが行きたかったとおっしゃっていた「聖和シンガーズ」の引率で行かせていただきました。
 今から21年前、1996年、平成8年の夏休み、第12回シンガーズでした。
 22名の生徒と音楽の内田恵美子先生、ピアニストの小川貴之先生、コーディネーターはSr.マリーでした。私は内田先生の着物着付けなどの裏方や写真やビデオ撮影を担当しました。北のケアンズから南のメルボルンまで28日間、6つの姉妹校を訪問し、コンサートを行い、ホストしていただきました。途中のニュー・サウス・ウエールズ州ではライオンズクラブの招待ツアーとして会員様の家にホストしていただきました。大人になってからの初めてのホームステイはとても緊張し、つたない英会話にどきどきしながらもたくさんの方々との出会いがあり、忘れられない思い出となりました。 この「聖和シンガーズ」が何で始まったかというと、実は第1回目は今から44年前、1973年、昭和48年に聖和創立20周年記念として、第2代校長Sr.メリークレメントの提案で、これまでのオーストラリアからの援助のお礼として音楽による訪問を計画されたのです。コーラス隊のメンバーをどうやって決めたかというと、中学高校生、全生徒に歌のテストを行い、高校生22名、中学生3名が選ばれたそうです。 最初はこの1回だけと思われていたようですが、3年後もライオンズクラブの招待を受け実施され、その後は2年に1度のペースで、1998年、平成10年の第13回まで実に25年間実施されました。 実はコフスハーバー市との姉妹都市提携は聖和シンガーズがきっかけとなり、今から29年前、1988年、昭和63年に提携式があり、この年のコフスハーバーでの演奏会は姉妹都市提携記念演奏会となったのです。 毎回、世界の歌、日本の歌、ミュージカル、オペレッタ、ソロ演奏など工夫を凝らし、大変喜んでいただいたと13回指導、引率をされた内田恵美子先生は創立50周年記念誌に記されています。コンサートのみならず病院や老人ホーム、小学校、幼稚園などにも訪問し、日豪親善の懸け橋となって大きな役割を果たして来たのです。
 このような素晴らしい歴史をこれからもかたちを変えつつも続けていくことが大切ではないかと思います。 オーストラリアに7つの姉妹校を持つ聖和女子学院です。みなさんのアイデアや協力でこれからも素晴らしい交流を続けていきましょう。

 

おはようございます。高校2年副担任、保健体育科のK.H.です。
 長年聖和に勤めさせていただくと、当然朝の話も数多く、今日は何十回目の話になるでしょうか。年々ネタ切れ状態になり、自分の知識不足にただ反省するばかりです。今朝は私事で誠に申し訳ございませんがお許し下さい。

 12月10日の日曜日は娘の結婚式でした。
 私の娘は私と違っていいも悪いも何でもきちっとしすぎてるので結婚はどうかな~と一抹の不安がありました。娘に尋ねるといつも「30までにはするけん」という答え、娘は来年の4月で30才、まさに神に感謝という感じでした。息子の結婚式は経験してましたので今回ものんびりかまえてたら息子の時とは違った緊張感がありました。
 式が始まり、娘と初めて腕を組んで歩くなんか違和感のあるバージンロード、体育の教員でありながら娘と合っているようで合っていない全くリズム感のないウエディングステップ。新郎に娘を渡す時も、握手の手にはつい力が入りすぎ、プレッシャーを与えたのではと反省しました。続いて披露宴では多くの方に来ていただき、親として感謝するばかりでした。娘の中学校時代の恩師でその後私が生徒募集でも大変お世話になった校長先生、2年半自宅の寮で娘をあずかっていただき心と体を鍛えていただいた当時のバレー部顧問の先生、3年間連続で担任をしていただいた藤村教頭先生、あらためてありがとうございました。また、バレー部の同期は遠方にもかかわらず全員きてくてれました。そしてクラスメートだった私が顧問をしてたハンドボール部のキャプテン、彼女は私が近くに行くなりピシッと立って直立不動、いまだに私の顔を見ると緊張すると笑っていました。いったい私からどういう教育を受けてきたんでしょうね。そして、披露宴の途中では不思議な縁を感じることもありました。新郎側のご挨拶の中で上司の方が新郎新婦よりずっと前に新婦のお父様を知ってたと。私はびっくりしてご挨拶にいったところ娘さんが聖和中バレー部の卒業生で松岡先生には大変お世話になりましたと言っておられました。そして娘が在学中に春高バレー出場、今回結婚の時に再び春高バレー出場、司会者の方にも聖和高校春高バレー出場おめでとうございますとアナウンスまでしていただきました。
 いよいよ披露宴のエンディング、娘との事前打ち合わせの中で泣かせる挨拶ではなく笑える挨拶をしてくれと言ってたのですが、そうも行かなかったのでしょう。感謝の言葉の一節に次のような言葉がありました。
「高校時代はお父さんから厳しい言葉しか言われなかったけど、一度だけ部活の事で悩んでいるときに誰もいない体育館でひとこと頑張れと言ってもらいうれしかった」と。そういえばそんなこともあったなあと懐かしく思い、さすがにほろっときました。結婚式を終え、親としての責任をはたした安堵感もありましたが、いろんな事を考えさせられる結婚式でした。
 いちばん感じた事は娘は親よりも今までかかわっていただいた全ての人に育てていただいてたということ。次に思ったのは人生の中で人と人とのかかわりはホントに大事にしないといけないということ。
 みなさんはどうでしょう。人と人とのかかわりを大事にしていますか。まさか自分は一人でも大丈夫だと大きな勘違いをしてる人はいないと思いますが、どうでしょう。まずは家族、そしてクラスメート、部活の仲間など自分のまわりの人たちを大切に思って下さい。そうすれば自分も大切に思ってもらえるし、穏やかな人間関係を築くことができるでしょう。そしてそれがきっと役にたつことがくると私は確信しています。

 最後になりますが、昨夜新婚旅行先から家内の携帯に写真が送ってきたそうです。幸せそうなだんなを見ておかしくてつい笑ってしまったそうです。
 ちなみに私は見ませんでした。今朝はこれで終わります。

 

質問ですが、
「地球に住む人がもし100人だったとすると開発途上国で暮らす人はどれくらいになると思いますか?」

 答えは82人です。
 これはJICAの広告に載っている紹介文の1つです。JICAとは世界の問題を解決するための国際協力を行う機関です。
 高校1年生では先月、吉岡町にある小川工務店の社員の方が実際にJICAと連携して行った活動についてお話を聞く機会がありました。代表取締役の小川様は本校の前PTA会長で、ご自身も海外青年協力隊として活動された経歴をもたれています。
 社員の方を助けが必要な場所に派遣し、地元佐世保からでも世界的な援助をしているということ、2年間派遣国のフィージーで小川工務店の社員として働き、家庭を持ちながらでもボランティア活動できる環境を整えていることなど、たくさんお話いただきました。 また現在は24歳の女性の社員の方がセネガルで日本語を教える活動をされています。YouTubeでセネガル日本語チャンネルと検索すると日本語を楽しく話している様子が見られます。
 世界の問題をどれだけ自分のことのように考えられるのか、これから皆さんに求められるものの一つだと思います。はじめに言いましたが、一学年を世界と例えると、4クラス中3クラスは開発途上国に暮らす人々です。 いきなり自分と世界をリンクすることが難しい人は、今のうちにできるボランティア活動に積極的に取り組んでみてはどうでしょうか?佐世保にも気軽に相談に行けるボランティアセンターがあり、今日も18:45まで開いています。
 最後に、私が小川さんたちとの打ち合わせの中で心に残った言葉をお伝えします。
挑戦すべきことに 一歩踏み出した時点で 成功している。」

 おはようございます。宗教科担当のNです。
 皆さんは、今日が聖和にとってどのような日か、もちろんご存知ですよね?
 ルカによる福音書に記される「善きサマリア人のたとえ話」は、現在の私たちにも通じるたとえ話です。「隣人を自分のように愛しなさい」という律法の教えについて、イエスとの会話の中で律法の専門家は「では、私の隣人とは誰ですか?」という問いかけをします。もしかしたら、彼は「隣人になる人」と「ならない人」という明確な区別をしたかったのかもしれません。しかし、イエスが語ったこのたとえ話は、追いはぎに襲われた一人の人を助けたのが、「汚れている」と嫌われていたサマリア人だったというものです。どんなに律法の教えを理解し、守っている人でも、「隣人を自分のように愛する」ということが必ずしもできるわけではないことを教えています。サマリア人は自分が周りからどう見られているのか、どう思われているのか、そんなことは関係なく、ただ目の前で起きている状況で自分ができることを行いました。
 今から64年前の今日、善きサマリア人修道会のシスター方は、戦争中、オーストラリアと敵対した国にも関わらず来日し、広島・長崎の原爆による惨状を目の当たりにしました。学校建設という目的はありましたが、まずは目の前で苦しむ人々を救うために尽力したというのは、皆さんにお配りしている『ぶどうの木の下で』にも記されています。

 どうか今日一日、来日されたシスター方を思いながら過ごしてください。聖和で学ぶ皆さんが、目の前で苦しむ人がどのような人であろうと、自分ができる限りの救いの手を差し伸べ、シスター方が聖和という名に思いを込めた「平和を創る女性」として育っていくことをお祈りして、今朝の話を終わります。

 

 8月の終わりに、映画「関ヶ原」が封切られたので見に行きました。石田三成と徳川家康による天下分け目の戦いを描いた作品です。
 私にとって、司馬遼太郎の「関ヶ原」は忘れられない作品です。ずいぶん昔、正月に3日間かけて7時間ドラマとして放送されました。調べてみると、今から36年前、TBS開局記念30周年として制作されたようです。こんなことが机に座ったまま調べられるというのは、本当に便利な世の中になったものです。

 圧巻の内容で、ドラマを見終わって「家康というのはとんでもない悪いやつだ」と憤慨したことを覚えています。印象が強烈だったので、原作を読んでみようという気になりました。今まだ書店の目立つところに置いてある文庫本3巻です。
 読み進むにつれ、ドラマの感動がよみがえるとともに、いわゆる歴史小説というものが様々な記録に基づいて書かれていること、何百年も前の文書が捨てられず数多く残っていることに新たな驚きがありました。

 実はそれまで歴史にはほとんど興味がなかったのです。おそらく年号を覚えるのが苦手だったからでしょう。
 これをきっかけとして、歴史小説を読むようになりました。教科書の事実の列挙と違って、主人公の目を通して見る歴史はそれぞれの出来事が色を帯びているのです。

 昔の人の一生はたかだか5,60年ですが、何人もの主人公の人生をたどることで、日本史2千年のピースが重なりながら少しずつ埋まってきます。1冊読むごとに新たな発見があり、自分の歴史観ができあがっていくことは楽しみになりました。それは一つ一つの定理を積み上げて体系を形作っていく数学の勉強に似ているように思います。

 あれから36年、今でも読んでいる本の大半は歴史物です。若いとき、この「関ケ原」に出会っていなければ私の歴史観は全く違ったものになっていたことと思います。
 ただ、今実感していることがあります。年を取るにつれ、感動の度合いが小さくなってきたことと、読んだ内容をすぐに忘れてしまう記憶力の衰えです。
「本は若いときに読め。」
 読書週間も中程になりました。私が今身にしみて感じている、高校時代の先生のことばを皆さんにも送ります。

 

 

みなさん、おはようございます。
 中間考査お疲れ様でした。新学期が始まり、早くも2か月がたとうとしています。みなさん、新しいクラス・生活にはなれたでしょうか。私もやっと少し社会人生活にも、佐世保の生活にも慣れてきたかな?と思います。
 しかし、油断していたところ、朝の話の担当がもう回ってきてしまいました。何を話すか本当に悩みましたが、新人の今しかできないと思い、聖和にきて気づいたこと、思ったことをお話しします。
 私は小学校から高校まで共学の公立学校に通っていました。なので、聖和での生活はとても新鮮で、衝撃を受けることも多々ありました。女子トイレの大きさやピアノの数にもびっくりしましたが、特に驚いたのが、部活動への参加率が非常に高く、兼部までしている生徒がいることです。私の高校や友人の高校では、圧倒的に部活生よりも帰宅生のほうが多く、その分あまり学校に思い入れがなかったように感じます。
 そして、活発な生徒会活動や学級活動を見るたびに、生徒は本当に学校が好きなんだなあと感じます。クラスで、この金曜に開かれる生徒総会の議論についての話し合いをした際には、時間が足りないほどいろんな意見や案が飛び交い、衝撃を受けました。これもみなさんの学校を想う気持ちの強さが表れているのだと思います。
 今しかできないことを必死に、そして楽しんで取り組む皆さんはとても生き生きしています。そんな皆さんの元気や笑顔に私は日々励まされています。「子どもたちの夢を応援したい!」「子どもたちの支えになりたい」という想いで教師になりましたが、まだまだ今は生徒のみなさんや周りの先生たちにに支えられているばかりです。この場を借りてお礼を言わせてください、ありがとうございます。
 一日でもはやく私もみなさんの学校生活をサポートできるようがんばるので、これからもよろしくおねがいします。そしてこれからも聖和生らしく、学校生活を存分に楽しんでください。

担当は、高校2年副担、英語科のE.T.でした。